2013年8月17日土曜日

玉木文之進〜吉田松陰の教育者



吉田松陰という人物を見る際に欠かせないのが叔父、玉木文之進です。

兵学家の後取りとして幼少より吉田松陰を厳しくした玉木翁はその思想の核を作りあげたともいえます。


話しはそれて、吉田松陰の思想は多くの弟子達によって受け継がれていくことになりますが、直系という流れで見ると、幕末から昭和までは

玉木文之進→吉田松陰→玉木文之進→乃木希典→昭和天皇

このような流れで受け継がれたと言えます。
(※乃木希典は松陰の遠縁にあたり、明治・日露戦争を勝利に導き軍神と讃えられた近代日本を生きた最後の武士といえる人物。吉田松陰と直接対面はなかったようだが、玉木文之進の教育を介してその教えは伝わっていると思われる。後に乃木は幼少期の昭和天皇の教育係となっているがその骨子となる教えは玉木文之進や吉田松陰、そして自身が全うした武士道が根幹にある。この視点で見ると少なくとも昭和までは吉田松陰の精神は近代日本に生き続けたと捉えられる)

さてそんな乃木希典が回想する玉木文之進翁のエピソードを以下に紹介します。
玉木文之進がいかに優れた教育者だったかを感じるエピソードであり、且つ幼少期の松陰とそっくりな教育環境で乃木が一体どんなことを教わったのか、色々想像してしまう面白い内容です。





以下、乃木が16歳の時の回想、片瀬遊泳場での学習院生徒に話す

 余は生来体質虚弱なかりしかば、武士の家には生まれながらも、家に伝ふる武家礼法などを好み、又文学の方に志を向け、武芸の方をば甚だ疎にしたり。或時学者となりて身を立てんとの志を起し、家父の許可を請いしに、家父は武士の家に生まれたる者が、かかる懦弱なる事にては宜しからずとて、断然として許可せざりき。余は止むを得ず、無断にて家を出て、萩の城下に近き松本村(現山口県萩市松本市)に赴きて、予て家父とも親しみ深かりし親戚なる玉木文之進翁を訪ひ、其の志を述べて同情を乞い、其の家に留めて学問をせしめられんことを願ひたりしに、玉木翁は一方ならず無断の家出を怒りて、余を叱斥し、且つ言ふやう、武士の家に生まれて武芸を好まずば、百姓をせよ。百姓せんとならば、我家にも幸ひ聊かの山林田畑もあれば、兎も角留まりて、見習いをなすべし。学問の志を改めずば、暫しも留め置き難し。早々立帰るべしと。時既に夜に入りしかど、余は素志に背くことなれば、此処に留まるも無益なりとて立出でたるに、門に達せる頃、夫人追ひ掛け来り、今頃立出でて如何にする積なるかと問はれたるを以て、余は直に故郷に立帰る積なりと答へるに、此の夜中にさることを為すは不可なり。今夜は翁に内々にて一泊さすべければ、明日帰宅せよと、いと深切にいたはりくれたるを以て、余も遂に一泊することとせり。其の夜夫人は余に向かひ御身は学問せん志なりと云ふ。然らば先ず試みに此の書を読むべしとて、論語を出して余が前に開かれぬ。余は之を読みしが、誤読も頗る多かりしかば、夫人は余の未熟を責め、此の如き事にて学者にならんとは分に過ぎたり。翁の許されざるも誠に理あり。御身若しいよいよ農業に従事せんとならば、自分は夜間御身の為に日本外史などを読みやらんと言はれたり。余は是に於て玉木家に留まらんとの決心をなし、夫人に向かつて仰に従ふべしと答へたり。かくて其の夜は過ぎ翌朝玉木翁に面して、いよいよ其の家に留められんことを請ひ、それより日々或は山林に行き、或は畑に行きなどして農事に携はれり。玉木翁は腰に大小を挿しながら、肥桶を荷ひ耕作をせられたり。余は碌々撃剣も学びたることなかりしかば、重き鍬鎌を採りて耕作に従事するは誠に困難なしを以て、初は茶を運び、農具を携へ行くなどの手伝をなせるのみ。其の後に至りても幾度か困難に堪へずして玉木家を去らんとの念も生じたけれど、なほ暫く忍耐する内に次第に事慣れて、終には困難とも思はず、大に興味を生ずるに至れり。農耕の暇には畑中にて玉木翁より学問上の話しも聞き、夜に入れば、夫人が糸を紡ぐ傍らにて日本外史などを読み習ひたり。此の如くすること一年に及びしに、余が体力は著しく発達し、全く前日の面影を一変するに至りぬ。余は是に於て玉木翁の教育の効果の空しからざるを悟り、漸く武士としての修養を積まんと志すに至れり。
(講談社学術文庫「乃木希典」大濱徹也著、P2627より引用)

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