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2012年9月21日金曜日

講孟箚記-尽心下篇-第四章 〜 強恕ー思いやり

講孟箚記-尽心下篇-第四章■

 本章は、前章の「我に在るものを求む」を受けて語ったものである。
「強恕して行ふ」云々、大いに努力して、恕、すなわち思いやりを他人に推し及ぼしてゆくことこそ、仁を求めるにもっとも近い方法である、という言葉は、まことに親切の教えである。
骨の折れることを努力してすることと、人の気持ちを思いやりながら行うことから、学問は始まるものであって、これが孟子のいう「強恕」の道なのである。
これ以下三章は、すべて「これより近きはなし」の意を推し広げて、身近の問題を取り上げ、それによって至上の道理を説いたものである。

〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕

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「骨の折れることを努力してすることと、人の気持ちを思いやりながら行うことから、学問は始まるものであって」云々、この一節は何かを学ぶ時には肝に銘じておきたい言葉ではないでしょうか。

2012年9月10日月曜日

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章 〜 孝行とは

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章


 前章に已に、斉ほどの大国でも、人倫に比べるならば極めて価値は軽く、わずかの食物と違うところがない、といっており、本章には、ただに斉国のみでなく、天下といえども、父子の道の重いことに比較すれば、やぶれ草履に等しいことを述べている。

本章の主意と、万章上篇首章の記述とを合わせて考えて、それによって大舜の心事を考察し、孝行の道を把握するがよい。

だいたい、孝道というものは、眼中、ただ父母を思う一念のみがあるのみである。
父母がなかったならば、一日も我が身は存在しないのであるから、それを思えば、父母のためにはわが生命も問題にならぬ。
まして天子の地位いかに貴くとも、天下の富いかに多くとも、父母に比較すればやぶれ草履に等しいもので、何で問題にするに足りようか。
以上の主意については、朱子の註に、説くこと至れり尽くせりである。

 新井白石の『読史餘論』に本章が次のように引用されている。

「『保元物語』を見ると、源義朝に父の爲義を切らさせられたことは、過去に未だに聞いたことのない不祥事であり、これは、それを命ぜられた朝廷のお誤りであるとともに、子たる義朝自身の誤りである。『孟子』に、舜が天子の地位にあり、皐陶が裁判官の地位にあるとき、父の瞽目-叟(コソウ)が殺人を犯し、皐陶がこれを、執えたとすれば、舜はどうしたでありましょうかという桃應の問いに対し、孟子が、舜はその地位を棄て、父を背負って辺土に去るであろうと答えたことを載せているが、義朝においても、父を助けようと思ったならは、その方法はあったはずである。自分に賜る恩賞に代えたとしても、よしわが身を投げ出したとしても、父を救おうと思うならば、救われたのである」

とある。
この意見に、わたくしはまず同感する。
このように心を使って、なお救うことができなかったならば、父とともに生命を失ったとしても、少しも心残りはないのである。
舜の心も同様であった。殺人罪をおかしたものを、人に知られぬように背負って逃げたとしても、天下の威勢をもってこれを捜索したならば、やがて露顕してしまったかも知れず、一生涯、父とともに欣然として居るということは、困難であったろう。

しかしながら、捕らえられて直ちに父子もろとも殺されたとしても、一生欣然としていたという事実を、少しも傷つけぬのである。楚の令尹であった子南の子の棄疾や、唐の李懐光の子の李摧の行為は、以上の道において全く欠点がないものである。

これについては、縢文公上篇末章の「一本」、本を一にするの説、及び本篇第二十六章の「権」の説にどと合わせて研究するとよい。
なお本章においてはもっぱら父子の間の道について説いているが、この舜の子としての心を推しつめてゆくならば、君臣間の道においても同じことなのである。『孝経』に、「孝の心を以て君に仕えるならばそれが忠である」とあるのは、このことをいったものである。

(講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾著より)

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この章で説かれている「孝」については、他の章でも度々出てくるので合わせて熟考したい。
儒家思想の「孝」は現代の親孝行の本の考え方だと思うが、ニュアンスは少し違う気がします。この章はそれを考えるのに良い例だと思う。

私の地元米沢の上杉鷹山公は大倹約令を発しながら、養父の重定には甘く、藩が窮乏しているにも関わらず贅沢な生活を許した。
この点について疑問視したり、甘やかすべきではなかった、と述べている著書があるが、それらの意見に関して言えば、私はこの章でも書かれている儒家思想の「孝」についての考えが不足しているように思う。
もともと徳の厚い上杉鷹山公であったのだから、当時一番の貧乏藩とはいえ、養父に藩主として迎えられたことに対する恩は計り知れないものがあるだろう。
その心中はこの箚記を読んで「孝」について考えれば、想像できるように思う。

2012年9月5日水曜日

講孟箚記-告子上篇-第四章 〜 仁と義について

講孟箚記-告子上篇-第四章
 
 告子のいう「義は外である」という説の誤りであることは、孟子が明確に批判しており、それ以上の説明を必要としない。しかしながら、シナ人は、義は外であるということの誤りを本当には理解していないので、君臣の義についての本当の理解がない。
わたくしが考えるのに、仁と義とは同じ根から生じたもので、その対象が何であるかによって、仁とか義とか、名称が違ってくるだけである。
されば、父子の間には仁といい〔親しみというのも慈孝というのも、みな仁のことである〕、君臣の間には義というが、その実際は、一つの心から出るものである。

 およそ臣下たる者は、自分がこの世に生まれるよりも前から君恩に俗して生長したのであり、衣食も田畑家屋も、すべて君恩によるものである。まして重禄・高位を世々継承する身分の者に至っては、君恩に俗すること、更に深い。
『孝経』には「身体髪膚、これを父母に受く」とあるが、父母や祖父母もみな君恩に俗して生長したのであるから、この身の頭の先から、足の先に至るまで、みな君のものにほかならない。目をつぶり、静かにこの身の根本がどこからきたものであるかを考えると、感激の心が悠然としておこり、報恩の心が勃乎として生まれてきて、君の御為には一身を水火に投ずべく、敵の刃のもとに斃(タオ)れたならば、わが責務を全うすることができるであろうか、直諫極論・面折廷争したならば、わが罪を免れることができるであろうかと、誠心の発動、おのずからやみがたいものがある。これがすなわち、義であり、仁であるが、しかも君臣の間においては、これを特に義と呼んでいる理由は、両者の身分が遙かに隔たっているため、親愛の情が父子の間のようにはゆかないからであり、これを義と呼んで、その宜しきを得ようとするために外ならない。

 わたくしの友人に、某という胆が太く勇気があって、よく酒を飲む人物があるが、かつて江戸にいた時、ある料亭の会合の席で痛飲し、世を歎くあまり、大いに酔いしれてしまった。するとその下僕、それは七十あまりの老人で、某がまだ生まれぬ前からその家に仕えていたものであったが、大声をあげて泣きながら「御主人は、日頃はあのように狂暴の方ではありませんのに、ただ酒が人柄を狂わせてしまいます」といったので、その切々たる至誠が、一座の人々を感動させたことがあった。わたくしは、今に至るまで、このことを忘れることができない。この至誠こそ、わが日本人の固有の忠義であって、昔から、忠臣義士の心も、この老僕の心と同じものなのである。
そしてこの老僕が主人を心配する心は、わが子を親愛する心に外ならぬので、これは仁であるが、ただ、対象が主人であるから、大声で泣くだけであって、わが子を叱りつけるようにすることができないのである。これが、仁と同根でありながら、君臣の間では義と呼ぶ理由なのである。

しかし、この問題は、シナ人においては事情を異にしており、彼にては、「君臣は義をもって合うものである」といって、両者の道が一致した時は服従し、一致できぬ時には辞任する。
「三諫して主人に聴かれぬ場合には、その国を去る」というのが、これである。
すなわち魯の人でありながら楚の国に仕えてもよく、鄒の人でありながら斉の国に仕えてもよい。
されば、彼らは、義は内であるというものの、仁と義とは同根であるということの真義を理解していないといわねばならない。■

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松陰先生は箚記を通して「皇国の皇国たる所以」、わが国の国体がどういったものであるかを説いているが、それを理解するのに一番大切なものが『孟子』本文のテーマでもある「仁」である。
「仁」は人としてなくてはならないものだが、我が国の仁は中国のそれとは違うと松陰先生はいう。
随所に「仁」について説かれる章が出てくるので、他も併せ読んで熟考したい。