2012年9月10日月曜日

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章 〜 孝行とは

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章


 前章に已に、斉ほどの大国でも、人倫に比べるならば極めて価値は軽く、わずかの食物と違うところがない、といっており、本章には、ただに斉国のみでなく、天下といえども、父子の道の重いことに比較すれば、やぶれ草履に等しいことを述べている。

本章の主意と、万章上篇首章の記述とを合わせて考えて、それによって大舜の心事を考察し、孝行の道を把握するがよい。

だいたい、孝道というものは、眼中、ただ父母を思う一念のみがあるのみである。
父母がなかったならば、一日も我が身は存在しないのであるから、それを思えば、父母のためにはわが生命も問題にならぬ。
まして天子の地位いかに貴くとも、天下の富いかに多くとも、父母に比較すればやぶれ草履に等しいもので、何で問題にするに足りようか。
以上の主意については、朱子の註に、説くこと至れり尽くせりである。

 新井白石の『読史餘論』に本章が次のように引用されている。

「『保元物語』を見ると、源義朝に父の爲義を切らさせられたことは、過去に未だに聞いたことのない不祥事であり、これは、それを命ぜられた朝廷のお誤りであるとともに、子たる義朝自身の誤りである。『孟子』に、舜が天子の地位にあり、皐陶が裁判官の地位にあるとき、父の瞽目-叟(コソウ)が殺人を犯し、皐陶がこれを、執えたとすれば、舜はどうしたでありましょうかという桃應の問いに対し、孟子が、舜はその地位を棄て、父を背負って辺土に去るであろうと答えたことを載せているが、義朝においても、父を助けようと思ったならは、その方法はあったはずである。自分に賜る恩賞に代えたとしても、よしわが身を投げ出したとしても、父を救おうと思うならば、救われたのである」

とある。
この意見に、わたくしはまず同感する。
このように心を使って、なお救うことができなかったならば、父とともに生命を失ったとしても、少しも心残りはないのである。
舜の心も同様であった。殺人罪をおかしたものを、人に知られぬように背負って逃げたとしても、天下の威勢をもってこれを捜索したならば、やがて露顕してしまったかも知れず、一生涯、父とともに欣然として居るということは、困難であったろう。

しかしながら、捕らえられて直ちに父子もろとも殺されたとしても、一生欣然としていたという事実を、少しも傷つけぬのである。楚の令尹であった子南の子の棄疾や、唐の李懐光の子の李摧の行為は、以上の道において全く欠点がないものである。

これについては、縢文公上篇末章の「一本」、本を一にするの説、及び本篇第二十六章の「権」の説にどと合わせて研究するとよい。
なお本章においてはもっぱら父子の間の道について説いているが、この舜の子としての心を推しつめてゆくならば、君臣間の道においても同じことなのである。『孝経』に、「孝の心を以て君に仕えるならばそれが忠である」とあるのは、このことをいったものである。

(講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾著より)

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この章で説かれている「孝」については、他の章でも度々出てくるので合わせて熟考したい。
儒家思想の「孝」は現代の親孝行の本の考え方だと思うが、ニュアンスは少し違う気がします。この章はそれを考えるのに良い例だと思う。

私の地元米沢の上杉鷹山公は大倹約令を発しながら、養父の重定には甘く、藩が窮乏しているにも関わらず贅沢な生活を許した。
この点について疑問視したり、甘やかすべきではなかった、と述べている著書があるが、それらの意見に関して言えば、私はこの章でも書かれている儒家思想の「孝」についての考えが不足しているように思う。
もともと徳の厚い上杉鷹山公であったのだから、当時一番の貧乏藩とはいえ、養父に藩主として迎えられたことに対する恩は計り知れないものがあるだろう。
その心中はこの箚記を読んで「孝」について考えれば、想像できるように思う。

講孟箚記-公孫丑上編-第八章 〜他の力を借りる

講孟箚記-公孫丑上編-第八章


舜は大聖人である。
彼がまだ身分が低くて、農夫・陶工・漁夫と一緒に生活している時、必ず「人に取りて以て善を為す」、他人に善いところがあれば、それを取り入れてすぐ実行したわけは、天下というものが至って大きく至って奥深いものであって、まことに一人の知恵や能力ではこれを窮めることができぬことを知っていたからである。

更に舜が「人と善を為す」、人々と一緒に善を行ったということになると、これは、仁の至上なるものであって、我ら至らぬものどもは、とうてい、聖人の大徳に及ぶべきものではないが、既に志を立てて聖人を学ばんと決心した以上、大舜であるからといって、その大徳に畏れることはないのである。

それ故に、自己の小さな知恵や能力を挟まず、広い心を持って他人の知恵や能力を採用し、その上に人の善心を勧め助けて、いっしょに道に向かって進むべきである。
更に言えば、世の中には、人を誘って道に進もうとする人物は極めて少なく、ひどい人間になると、互いの知恵と知恵、能力と能力とをぶつけて抗争しあうまでになる。
この上なく哀しい話である。

われわれは、深くこの点に留意しなければならない。


(講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾著より)

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一人の能力は限られている。
全て自分でやろうとするのには限界があり、他人の能力を認めて助けてもらわなければ大道はなし得ない。
塾生ひとりひとりの特徴を見抜いていたといわれる松陰先生らしい言葉。

この講孟箚記を説かれた野山の獄では、松陰先生が孟子の講義をするだけでなく、松陰先生の提案により他の囚人にそれぞれの得意分野の先生となってもらい(歌や詩など)、互いに学問を磨いたといわれる。
誰に対しても分け隔てなく教え、誰に対しても教わる姿勢を持つ松陰先生だからこその重みがあるように思う。

大きな事態に直面すると、前しか見えなくなりがちだが、自分のすぐ近くにも今その時を乗り切るのにふさわしい能力を持った人がいるかもしれない。
心に留めておきたい一節です。



2012年9月7日金曜日

講孟箚記-万章上篇-第三章 〜 いつまでも根に持つな

講孟箚記-万章上篇-第三章

「怒りを蔵さず、恨みを宿めず」、怒りを隠さず、怨んでもそれをいつまでも根に持つことがない、という二句が、とりわけよい。
この問題は、弟に対する時だけでなく、仁人の心は、他のすべての人々に対してもこのようなのである。
『論語』に、「怨みを隠してその人を友とすることは、先輩の左丘明も恥ずかしいとしたが、私もまた恥ずかしいと思う」とあるが、それも同じ意味である。
凡そ人と交際する道は、もし相手に対し怨怒することがあったならば、直ちにこれを忠告直言すべきものである。
もしそれができなければ、むしろ怨怒しないほうがよい。
もしそうでなくて怨怒を胸のうちに隠しておき、折りを見てこれを吐き出そうと思ったならば、それは陰険な小人の行為であって、まことに臆病だといわねばならない。

君子の心は天の如くである。
されび怨怒するところがあれば、雷霆の怒りを発することもあるが、そのことが納得いくならば、また青空や太陽の如く少しも心のうちにそれを残すことがない。
これがいわゆる、君子の陽剛の徳というものである。

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これはそのまま文面通りに受け止めて良いと思います。
激情家だが言葉遣いは落ち着いていたと言われる松陰先生ですが、この章にあるように怒る時は
弟子達に対しても激しく怒り、手紙に弟子達の態度に憤慨し「絶交する」と手紙に書きつけています。
管理人としては非常に耳が痛い話しで、怒りを溜め込むタイプなので、心を改めなければと思うこのごろです。



2012年9月5日水曜日

講孟箚記-告子上篇-第四章 〜 仁と義について

講孟箚記-告子上篇-第四章
 
 告子のいう「義は外である」という説の誤りであることは、孟子が明確に批判しており、それ以上の説明を必要としない。しかしながら、シナ人は、義は外であるということの誤りを本当には理解していないので、君臣の義についての本当の理解がない。
わたくしが考えるのに、仁と義とは同じ根から生じたもので、その対象が何であるかによって、仁とか義とか、名称が違ってくるだけである。
されば、父子の間には仁といい〔親しみというのも慈孝というのも、みな仁のことである〕、君臣の間には義というが、その実際は、一つの心から出るものである。

 およそ臣下たる者は、自分がこの世に生まれるよりも前から君恩に俗して生長したのであり、衣食も田畑家屋も、すべて君恩によるものである。まして重禄・高位を世々継承する身分の者に至っては、君恩に俗すること、更に深い。
『孝経』には「身体髪膚、これを父母に受く」とあるが、父母や祖父母もみな君恩に俗して生長したのであるから、この身の頭の先から、足の先に至るまで、みな君のものにほかならない。目をつぶり、静かにこの身の根本がどこからきたものであるかを考えると、感激の心が悠然としておこり、報恩の心が勃乎として生まれてきて、君の御為には一身を水火に投ずべく、敵の刃のもとに斃(タオ)れたならば、わが責務を全うすることができるであろうか、直諫極論・面折廷争したならば、わが罪を免れることができるであろうかと、誠心の発動、おのずからやみがたいものがある。これがすなわち、義であり、仁であるが、しかも君臣の間においては、これを特に義と呼んでいる理由は、両者の身分が遙かに隔たっているため、親愛の情が父子の間のようにはゆかないからであり、これを義と呼んで、その宜しきを得ようとするために外ならない。

 わたくしの友人に、某という胆が太く勇気があって、よく酒を飲む人物があるが、かつて江戸にいた時、ある料亭の会合の席で痛飲し、世を歎くあまり、大いに酔いしれてしまった。するとその下僕、それは七十あまりの老人で、某がまだ生まれぬ前からその家に仕えていたものであったが、大声をあげて泣きながら「御主人は、日頃はあのように狂暴の方ではありませんのに、ただ酒が人柄を狂わせてしまいます」といったので、その切々たる至誠が、一座の人々を感動させたことがあった。わたくしは、今に至るまで、このことを忘れることができない。この至誠こそ、わが日本人の固有の忠義であって、昔から、忠臣義士の心も、この老僕の心と同じものなのである。
そしてこの老僕が主人を心配する心は、わが子を親愛する心に外ならぬので、これは仁であるが、ただ、対象が主人であるから、大声で泣くだけであって、わが子を叱りつけるようにすることができないのである。これが、仁と同根でありながら、君臣の間では義と呼ぶ理由なのである。

しかし、この問題は、シナ人においては事情を異にしており、彼にては、「君臣は義をもって合うものである」といって、両者の道が一致した時は服従し、一致できぬ時には辞任する。
「三諫して主人に聴かれぬ場合には、その国を去る」というのが、これである。
すなわち魯の人でありながら楚の国に仕えてもよく、鄒の人でありながら斉の国に仕えてもよい。
されば、彼らは、義は内であるというものの、仁と義とは同根であるということの真義を理解していないといわねばならない。■

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松陰先生は箚記を通して「皇国の皇国たる所以」、わが国の国体がどういったものであるかを説いているが、それを理解するのに一番大切なものが『孟子』本文のテーマでもある「仁」である。
「仁」は人としてなくてはならないものだが、我が国の仁は中国のそれとは違うと松陰先生はいう。
随所に「仁」について説かれる章が出てくるので、他も併せ読んで熟考したい。

2012年9月4日火曜日

講孟箚記-万章下篇-第二章〜祖法、天皇

講孟箚記-万章下篇-第二章

 古代のよい制度やよい意思が後世に伝わらないのは、常に暴と慢という二つの力によって阻害されるからである。「諸侯、その己を害するを悪みて、皆その籍を去る」、諸侯は、おのれの勢力を拡張するために、周の定めた序列が自分らを束縛するものであるとして悪み、各国ともそれを記載した文章を破棄してしまった、というのは、それは暴のことをいったものである。
後世、秦の利斯が、書籍を焼き捨て学者を坑うめにしたのは、暴の甚だしいものであるが、その淵源は久しいといわねばならず、それは、本章に、すでに「籍を去る」、文書を破棄したという記事があることによって知ることができる。
慢というのは、記録することを怠り、記録してもそれを修補することを怠り、年がたつにつれて消え滅んでしまうことをいうのである。『孟子』に専ら暴のことばかりが記してあり、慢に及んでいないのは、記録のなくなった理由のうちの重大なものを特に挙げたからである。

 いったい、国家の政治上の第一の眼目は、祖法を守ることであり、祖法は文書に記録されている。『中庸』に「文王・武王の政治については、文書に記録されている」とあり、告子下篇第八章に「祖先より伝来の文書を守る」とあるのも、みなこの祖法のことをいったのである。
今日は、名君賢相相遇のよい時代なので、突然、暴によって文書を破棄するには至らぬであろう〔ある人が、それも覚束ないといっている〕が、慢によって文書がいつしか消えてゆくことに気づかぬということは、ないと保証しがたい。君主・宰相が負わねばならぬ問題は、文書保存の責務である。

さて、周室の制度はその詳細を知りがたいが、わたくしは常にそれについて深く感ずるところがある。周制においては、天子・公・侯・伯・子男を五等の段階とし、さらに諸国においては、君・卿・大夫・上士・中士・下士と六等の段階にしている。周制は事ごとにこの精神で貫かれており、籍田の礼、葬月の数の類も、すべて同じである。
思うにそれは、「天子という地位は公・侯より一階級尊いだけであり、君という地位は卿・大夫より一階級高いだけである」と考えたものであって、それ故に夏・殷・周の三代においては、君主たるもの、地位が高いからといって人に誇ることなく、謙虚な態度で下位の者に対する礼があり、それ故に国家のうちは、和らぎ睦まじかったのである。
ところが、春秋・戦国の時代になると、君主の威厳・恩徳ともに薄くなり、臣下は日々に驕慢となって、その結果として、田氏は主人を倒して斉を奪い、韓・魏・趙の三氏は協力して主人を廃し、晋を奪って分配するまでになったのであり、最後には、君臣間の礼は全く破棄されてしまった。それ故に、秦が天下を統一して天子となると、君臣の分度を定め、多年積もった弊風を直ちに改めて、眼前、大いに快哉を誇ったものであるが、それ以来、三代の時代の美しい精神は全く滅びてしまい、そのまま今日に至っている。まことに惜しむべきことである。

 わが国は、君臣の義において、外国とは全く別であるとはいえ、天子は雲の上のお方で人間とは違った存在であるというように思うことは、古の道ではない。
王朝が衰えた結果としてこう考えるようになり、こう考えるようになった結果として王朝はますます衰えるのである。
さればこの道を天子の御前に申し上げる人物がいたならば、必ず時代を超えて古道に進む人物も現れてくることであろう。
しかしながら、このことは、不用意に説くべき問題ではない。不用意に説き不用意に聞いた時には、かえって権奸のよい口実となって、自ら天子たらんとする乱臣賊子が、わが国にも相次いで出るようになることであろう。これはまことに恐るべきことである。

 また按ずるに、周制によれば、庶人であっても、五人から九人の家族を養うことができた。これはまことに恩徳の厚いことであったといわねばならない。
しかし古代のシナにおいては、土地広く畑多く、しかも人口が少なかったからこそ、これを行うことができたものと考えられ、わが国の今日では、それをそのまま手本とはし難いことである。

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この章では終盤の手前で天子について述べている。
「天子を人間とは違った存在とみることは古の道ではない」という。
ここに松陰先生の国体観が垣間みれる。
天皇が尊い存在であるが、それは特別神聖視するものではない。

明治維新後の帝国主義はここが根本的に失敗だったと感じる。
日本は皇国、ではあるが西洋の皇帝、王とはその在り方が異なる。
天皇を近代化にあわせて神聖な皇帝として無理矢理仕立て上げる必要はなかったのではないかと思う。



2012年9月1日土曜日

講孟箚記-公孫丑下篇-第十四章〜報酬を受けるということ

講孟箚記-公孫丑下篇-第十四章

孟子は斉の宣王にお目にかかった当初から、意見が容れられないことを察して、去らんとする志があったので、俸禄を受けなかった。
この事実から、古人は、いい加減の態度では俸禄を受けなかったことを知らねばならない。
韓信のことばに、「人の車に載るものはその人の心配を自分の心に載せ、人の着物を着るものはその人の心配を自分の胸に抱き、人の食を食べるものはその人のために生命を投げ出す」とあるが、仕えてその俸給を受けるからには、この一身をすべて君に捧げ、君の御用に役立てねばならない。
このことこそ、古人が、いい加減には俸給を受けなかった理由なのである。
今の世の人々は、太平の深い恵みと、祖先の恩によって、沢山の俸給を賜っていながら、このようになった当初のことは知っていないし、俸給を受けることが、いい加減な態度でしてはならぬことを知っている者も少ない。
これらの章においてこのことの本義をよろしく悟るべきである■


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いわずもがな、卑近な例ではありますが、わかりやすくいうと報酬を受け取ることの重みを説いていることはおわかりでしょう。
国家公務員であればなおさらのことですが、、、。

ですが一歩踏み込むと先祖代々受け継いできたものを子々孫々まで残すために努めなさい、という話しへ繋がっている一節であると思います。

吉田松陰先生は我々が代々先祖から受け継いできたものを非常に重視されています。
先人の恩恵を受けながら行きている我々は、日々の生活においても徒に過ごすことなく、その重みを受け止め感謝し、子孫へ残し伝えていかなければいけないと教えられています。

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章〜孝行について

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章

■前章に已に、斉ほどの大国でも、人倫に比べるならば極めて価値は軽く、わずかの食物と違うところがない、といっており、本章には、ただに斉国のみでなく、天下といえども、父子の道の重いことに比較すれば、やぶれ草履に等しいことを述べている。本章の主意と、万章上篇首章の記述とを合わせて考えて、それによって大舜の心事を考察し、孝行の道を把握するがよい。だいたい、孝道というものは、眼中、ただ父母を思う一念のみがあるのみである。父母がなかったならば、一日も我が身は存在しないのであるから、それを思えば、父母のためにはわが生命も問題にならぬ。まして天子の地位いかに貴くとも、天下の富いかに多くとも、父母に比較すればやぶれ草履に等しいもので、何で問題にするに足りようか。以上の主意については、朱子の註に、説くこと至れり尽くせりである。

新井白石の『読史餘論』に本章が次のように引用されている。「『保元物語』を見ると、源義朝に父の爲義を切らさせられたことは、過去に未だに聞いたことのない不祥事であり、これは、それを命ぜられた朝廷のお誤りであるとともに、子たる義朝自身の誤りである。
『孟子』に、舜が天子の地位にあり、皐陶が裁判官の地位にあるとき、父の瞽目-叟(コソウ)が殺人を犯し、皐陶がこれを、執えたとすれば、舜はどうしたでありましょうかという桃應の問いに対し、孟子が、舜はその地位を棄て、父を背負って辺土に去るであろうと答えたことを載せているが、義朝においても、父を助けようと思ったならは、その方法はあったはずである。
自分に賜る恩賞に代えたとしても、よしわが身を投げ出したとしても、父を救おうと思うならば、救われたのである」とある。この意見に、わたくしはまず同感する。
このように心を使って、なお救うことができなかったならば、父とともに生命を失ったとしても、少しも心残りはないのである。
舜の心も同様であった。
殺人罪をおかしたものを、人に知られぬように背負って逃げたとしても、天下の威勢をもってこれを捜索したならば、やがて露顕してしまったかも知れず、一生涯、父とともに欣然として居るということは、困難であったろう。しかしながら、捕らえられて直ちに父子もろとも殺されたとしても、一生欣然としていたという事実を、少しも傷つけぬのである。
楚の令尹であった子南の子の棄疾や、唐の李懐光の子の李摧の行為は、以上の道において全く欠点がないものである。
これについては、縢文公上篇末章の「一本」、本を一にするの説、及び本篇第二十六章の「権」の説にどと合わせて研究するとよい。なお本章においてはもっぱら父子の間の道について説いているが、この舜の子としての心を推しつめてゆくならば、君臣間の道においても同じことなのである。
『孝経』に、「孝の心を以て君に仕えるならばそれが忠である」とあるのは、このことをいったものである。

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ここに孝に対する姿勢が見れる。
上杉鷹山は大倹約を行いながらも、養父の重定の贅沢は許した。
この行為を疑問視する著書があるが、儒家思想による「孝」に対する考え方は一般的な善悪で白黒をつけられるほど単純ではないように思う。
吉田松陰先生の弟子である高杉晋作も、あれほどの豪傑でありながら、両親に対してはまるで頭があがらなかったといわれる。
高杉がすぐ兵を挙げなかったのも、親に対する孝行心や配慮があったのが理由の一つである。
歴史上の人物について学ぶ時は、この「孝」について深く理解するように努める必要があるように思う。