講孟箚記-尽心上篇-第三十五章
■前章に已に、斉ほどの大国でも、人倫に比べるならば極めて価値は軽く、わずかの食物と違うところがない、といっており、本章には、ただに斉国のみでなく、天下といえども、父子の道の重いことに比較すれば、やぶれ草履に等しいことを述べている。本章の主意と、万章上篇首章の記述とを合わせて考えて、それによって大舜の心事を考察し、孝行の道を把握するがよい。だいたい、孝道というものは、眼中、ただ父母を思う一念のみがあるのみである。父母がなかったならば、一日も我が身は存在しないのであるから、それを思えば、父母のためにはわが生命も問題にならぬ。まして天子の地位いかに貴くとも、天下の富いかに多くとも、父母に比較すればやぶれ草履に等しいもので、何で問題にするに足りようか。以上の主意については、朱子の註に、説くこと至れり尽くせりである。
新井白石の『読史餘論』に本章が次のように引用されている。「『保元物語』を見ると、源義朝に父の爲義を切らさせられたことは、過去に未だに聞いたことのない不祥事であり、これは、それを命ぜられた朝廷のお誤りであるとともに、子たる義朝自身の誤りである。
『孟子』に、舜が天子の地位にあり、皐陶が裁判官の地位にあるとき、父の瞽目-叟(コソウ)が殺人を犯し、皐陶がこれを、執えたとすれば、舜はどうしたでありましょうかという桃應の問いに対し、孟子が、舜はその地位を棄て、父を背負って辺土に去るであろうと答えたことを載せているが、義朝においても、父を助けようと思ったならは、その方法はあったはずである。
自分に賜る恩賞に代えたとしても、よしわが身を投げ出したとしても、父を救おうと思うならば、救われたのである」とある。この意見に、わたくしはまず同感する。
このように心を使って、なお救うことができなかったならば、父とともに生命を失ったとしても、少しも心残りはないのである。
舜の心も同様であった。
殺人罪をおかしたものを、人に知られぬように背負って逃げたとしても、天下の威勢をもってこれを捜索したならば、やがて露顕してしまったかも知れず、一生涯、父とともに欣然として居るということは、困難であったろう。しかしながら、捕らえられて直ちに父子もろとも殺されたとしても、一生欣然としていたという事実を、少しも傷つけぬのである。
楚の令尹であった子南の子の棄疾や、唐の李懐光の子の李摧の行為は、以上の道において全く欠点がないものである。
これについては、縢文公上篇末章の「一本」、本を一にするの説、及び本篇第二十六章の「権」の説にどと合わせて研究するとよい。なお本章においてはもっぱら父子の間の道について説いているが、この舜の子としての心を推しつめてゆくならば、君臣間の道においても同じことなのである。
『孝経』に、「孝の心を以て君に仕えるならばそれが忠である」とあるのは、このことをいったものである。
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ここに孝に対する姿勢が見れる。
上杉鷹山は大倹約を行いながらも、養父の重定の贅沢は許した。
この行為を疑問視する著書があるが、儒家思想による「孝」に対する考え方は一般的な善悪で白黒をつけられるほど単純ではないように思う。
吉田松陰先生の弟子である高杉晋作も、あれほどの豪傑でありながら、両親に対してはまるで頭があがらなかったといわれる。
高杉がすぐ兵を挙げなかったのも、親に対する孝行心や配慮があったのが理由の一つである。
歴史上の人物について学ぶ時は、この「孝」について深く理解するように努める必要があるように思う。
■前章に已に、斉ほどの大国でも、人倫に比べるならば極めて価値は軽く、わずかの食物と違うところがない、といっており、本章には、ただに斉国のみでなく、天下といえども、父子の道の重いことに比較すれば、やぶれ草履に等しいことを述べている。本章の主意と、万章上篇首章の記述とを合わせて考えて、それによって大舜の心事を考察し、孝行の道を把握するがよい。だいたい、孝道というものは、眼中、ただ父母を思う一念のみがあるのみである。父母がなかったならば、一日も我が身は存在しないのであるから、それを思えば、父母のためにはわが生命も問題にならぬ。まして天子の地位いかに貴くとも、天下の富いかに多くとも、父母に比較すればやぶれ草履に等しいもので、何で問題にするに足りようか。以上の主意については、朱子の註に、説くこと至れり尽くせりである。
新井白石の『読史餘論』に本章が次のように引用されている。「『保元物語』を見ると、源義朝に父の爲義を切らさせられたことは、過去に未だに聞いたことのない不祥事であり、これは、それを命ぜられた朝廷のお誤りであるとともに、子たる義朝自身の誤りである。
『孟子』に、舜が天子の地位にあり、皐陶が裁判官の地位にあるとき、父の瞽目-叟(コソウ)が殺人を犯し、皐陶がこれを、執えたとすれば、舜はどうしたでありましょうかという桃應の問いに対し、孟子が、舜はその地位を棄て、父を背負って辺土に去るであろうと答えたことを載せているが、義朝においても、父を助けようと思ったならは、その方法はあったはずである。
自分に賜る恩賞に代えたとしても、よしわが身を投げ出したとしても、父を救おうと思うならば、救われたのである」とある。この意見に、わたくしはまず同感する。
このように心を使って、なお救うことができなかったならば、父とともに生命を失ったとしても、少しも心残りはないのである。
舜の心も同様であった。
殺人罪をおかしたものを、人に知られぬように背負って逃げたとしても、天下の威勢をもってこれを捜索したならば、やがて露顕してしまったかも知れず、一生涯、父とともに欣然として居るということは、困難であったろう。しかしながら、捕らえられて直ちに父子もろとも殺されたとしても、一生欣然としていたという事実を、少しも傷つけぬのである。
楚の令尹であった子南の子の棄疾や、唐の李懐光の子の李摧の行為は、以上の道において全く欠点がないものである。
これについては、縢文公上篇末章の「一本」、本を一にするの説、及び本篇第二十六章の「権」の説にどと合わせて研究するとよい。なお本章においてはもっぱら父子の間の道について説いているが、この舜の子としての心を推しつめてゆくならば、君臣間の道においても同じことなのである。
『孝経』に、「孝の心を以て君に仕えるならばそれが忠である」とあるのは、このことをいったものである。
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ここに孝に対する姿勢が見れる。
上杉鷹山は大倹約を行いながらも、養父の重定の贅沢は許した。
この行為を疑問視する著書があるが、儒家思想による「孝」に対する考え方は一般的な善悪で白黒をつけられるほど単純ではないように思う。
吉田松陰先生の弟子である高杉晋作も、あれほどの豪傑でありながら、両親に対してはまるで頭があがらなかったといわれる。
高杉がすぐ兵を挙げなかったのも、親に対する孝行心や配慮があったのが理由の一つである。
歴史上の人物について学ぶ時は、この「孝」について深く理解するように努める必要があるように思う。
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