2012年9月12日水曜日

講孟箚記-離婁下篇-第十三章 〜 本当の孝と忠について

講孟箚記-離婁下篇-第十三章


 この章の意味は、朱子の註によって已に明らかになっている。しかしわたくしは、今別の一説を提起して参考にしたいと思う。

 「生を養ふ」、親の生存中に孝養を尽くすということは、父母の目の前における行為であるから、非常な狂妄人でない以上は、ある程度までは親に恭しい態度をするものであるから、この態度を見て簡単にその人を信じて孝子と思い、親に孝だから兄に悌の念もあるであろう、君に忠の心もあるであろうなどと思って、大事の際にこの人を用いようとすると、これは大きな誤りであろう。
「死を送る」、親の葬儀を行う際に及んでも、なお親の生存中同様、必ず誠に必ず信、誠実を尽くすことができる人物こそ本当の孝子であって、このような人こそ、大事に当てるに足るものであり。
大事に当てるとは、重大な事が生じた際、それを担当するに堪える人物であるということである。すなわち『論語』にいう「大節に臨みて奪ふべからず」のごとき精神力があることをいうのである。〔当つという字の意味は、朱子の註と少しことなっている。〕

 以上の道理は、父母の生死の際のことだけのことでなく、あらゆる問題の上で同一である。
国が強く勢いが盛んである時には、誰も忠勤を励むものであるが、国が衰え勢いが去ってしまうと志を変えて敵に降参し、主君を売る類の人間が少なくない。
それ故に人は、晩節を全うするのでなければ、どれほど才智学藝があっても、尊ぶ価値がないのである。

英明な君主のもとで忠義を尽くす家臣は珍しくない。
暗愚な君主に仕えて忠義を尽くす人物こそ、真の忠臣である。

慈愛深い父のもとで孝行をする子供は珍しくない。
頑迷な父に仕えて孝行を尽くす人物こそ、真の孝子である。

賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。
責罰されてもなお忠孝を尽くす人物こそ、真の忠臣孝子である。
武士たる者が覚悟すべきこと、実にこの一点にある。


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「仁」の親に対するものが「孝」、君に対するものが「忠」であり、両者あわせて挙げて本当の忠孝とは、ということを説いている。

その人の真の「忠孝」を見極めなければ、大事に際して、任せるべきではなかった、、、という結果になることを忠告しているともとれる。

話しは少しずれますが、体調不良で過去に辞任してしまった元首相の再出馬は、誰もが「大事は任せられない、」という気持ちだと思うのだが、どうだろうか。

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