講孟箚記-離婁下篇-第二十七章■
「礼」というものは、一定の規矩、中正の標準であって、人の行動をこれに照らして過不及なからしめるものである。しかるに世俗の人々の態度を見ると、恭しさの度を過し諂(ヘツラ)いになったものもあれば、傲、人におごるの度を過ぎて慢、人を侮るにまで陥っている者もある。これらはみな礼にはずれている。
もし本当に礼を実行しようと思うならば、孔子・孟子の行為によって知るのがよい。
孔子が主君のお招きを受けた時、堂の下で礼拝したのは、当時一般の堂上で礼拝したという慢に失した風潮を抑えて、礼に復帰しようとしたものである。
孟子が本章に見えるように、弔問に赴いた際、右師王驩と、彼ひとり口を開かなかったのは、人々が争って権力者にとり入ろうとする、諂いの態度を矯め直して礼に復帰させようとしたものである。
されば孔子も孟子も、その精神は等しいものであった。
現今、礼も習俗も、いずれも孔子・孟子の時代とは異なっているが、細かく考察すると、諂ったり慢(アナド)ったりして、礼を失っている人間は、無しとしないのである。
さればこの問題を深く考えてみることが大切である。
さらにまた、第十章「仲尼は巳甚だしきことを為さざる者」の意と互いに照らし合わせて、本旨を明白にすべきである。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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「礼」というものは、一定の規矩、中正の標準であって、人の行動をこれに照らして過不及なからしめるものである。しかるに世俗の人々の態度を見ると、恭しさの度を過し諂(ヘツラ)いになったものもあれば、傲、人におごるの度を過ぎて慢、人を侮るにまで陥っている者もある。これらはみな礼にはずれている。
もし本当に礼を実行しようと思うならば、孔子・孟子の行為によって知るのがよい。
孔子が主君のお招きを受けた時、堂の下で礼拝したのは、当時一般の堂上で礼拝したという慢に失した風潮を抑えて、礼に復帰しようとしたものである。
孟子が本章に見えるように、弔問に赴いた際、右師王驩と、彼ひとり口を開かなかったのは、人々が争って権力者にとり入ろうとする、諂いの態度を矯め直して礼に復帰させようとしたものである。
されば孔子も孟子も、その精神は等しいものであった。
現今、礼も習俗も、いずれも孔子・孟子の時代とは異なっているが、細かく考察すると、諂ったり慢(アナド)ったりして、礼を失っている人間は、無しとしないのである。
さればこの問題を深く考えてみることが大切である。
さらにまた、第十章「仲尼は巳甚だしきことを為さざる者」の意と互いに照らし合わせて、本旨を明白にすべきである。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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