講孟箚記-尽心上篇-第十五章■
本章は、その内容切実、文章簡易、まことに素晴らしい。
幼児が親を愛する心は、心の本質がそのまま現れたもの、すなわち仁であって、上に在るものが、この心で天下の親を見るならば、天下の人々もそれぞれ自分の親を見ること、童子がその親を愛するがごとくであり、同時に天下の親も、それぞれ自分の子を見ること、幼児を見るごとくにするであろう。
ここにおいて世の中に不孝の子も、不慈の親もなくなるのである。
そしてこの問題は、兄弟間においても同じ道理である。
古今、この章を読んだものの数は限りないのであるが、ただ※王陽明だけが、本章によって大いに悟り、ついに独自の学問を樹立し、後世全ての人々が彼に及ばぬのである。
以上の事実によって、書物は精思熟考するのでなければ、決してその源に逢いその流れを達する、道の根源を会得し、それを天下後世にゆきわたらせることはできぬのである。
また考えるに、「他なし、これを天下に達するなり」、重要なることは、親を愛し兄を敬う心を天下に推し及ぼすという一事である、という結論こそ、運用と工夫に関する沢山の内容を包含しているのである。これは離婁上篇第十一章の「人々、その親を親とし、その長を長として、天下平かなり」と同種のことばである。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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※注釈より
王陽明是に因りて・・・『王文成公年譜』(文成は陽明の諡)に、正徳十六年、五十歳、正月、南晶に居る、この歳、始めて到良知(良知を致す)の教えを掲げ、「我、この良知の二字、実に千古聖々相伝の一点一滴の骨血なり」といったと見える。
すなわち陽明は、道徳的判断力を以て人の先天固有のものとし、孟子の良知語(本章に
「人の学ばずして能くするものは、其の良能なり、慮らずして知るものは、其の良知なり」
とある)を、その依拠としたのである。
本章は、その内容切実、文章簡易、まことに素晴らしい。
幼児が親を愛する心は、心の本質がそのまま現れたもの、すなわち仁であって、上に在るものが、この心で天下の親を見るならば、天下の人々もそれぞれ自分の親を見ること、童子がその親を愛するがごとくであり、同時に天下の親も、それぞれ自分の子を見ること、幼児を見るごとくにするであろう。
ここにおいて世の中に不孝の子も、不慈の親もなくなるのである。
そしてこの問題は、兄弟間においても同じ道理である。
古今、この章を読んだものの数は限りないのであるが、ただ※王陽明だけが、本章によって大いに悟り、ついに独自の学問を樹立し、後世全ての人々が彼に及ばぬのである。
以上の事実によって、書物は精思熟考するのでなければ、決してその源に逢いその流れを達する、道の根源を会得し、それを天下後世にゆきわたらせることはできぬのである。
また考えるに、「他なし、これを天下に達するなり」、重要なることは、親を愛し兄を敬う心を天下に推し及ぼすという一事である、という結論こそ、運用と工夫に関する沢山の内容を包含しているのである。これは離婁上篇第十一章の「人々、その親を親とし、その長を長として、天下平かなり」と同種のことばである。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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※注釈より
王陽明是に因りて・・・『王文成公年譜』(文成は陽明の諡)に、正徳十六年、五十歳、正月、南晶に居る、この歳、始めて到良知(良知を致す)の教えを掲げ、「我、この良知の二字、実に千古聖々相伝の一点一滴の骨血なり」といったと見える。
すなわち陽明は、道徳的判断力を以て人の先天固有のものとし、孟子の良知語(本章に
「人の学ばずして能くするものは、其の良能なり、慮らずして知るものは、其の良知なり」
とある)を、その依拠としたのである。
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