二年前、志塾という勉強会の一環で吉田松陰の叔父である玉木文之進の旧宅にて岡田幹彦先生による講義を拝聴。 そこで吉田松陰の魂に触れることができました。 現代の松下村塾生になるべく、吉田松陰先生の言葉を身に刻み続ける日々が続いています。 相手が子供であろうが、大人であろうが、同じ牢獄の囚人であろうが、教えを説き且つ謙虚に学びを請うことができる素晴らしい教育者。 そんな吉田松陰の心に刺さる言葉を紹介させて頂きます。 ふらりといつでも立ち寄って松陰先生の言葉がのぞける場にできたらと思います。 また、人間関係の希薄化が問題視されている昨今ですが、縦横の人間関係としての繋がりだけでなく「時空を越えた=先人」との繋がりが重要だと最近気づきました。是非、先人の教えを共に学び、心身を鍛えましょう!! Twitter始めました、フォロー宜しくお願いいたします!→@31moushi (三十一回猛士)
2017年1月14日土曜日
2015年5月13日水曜日
松蔭神社
さてさて、意外と知られていないのが世田谷の松蔭神社のお墓に吉田松陰が眠っているということ。
萩にも松蔭神社はありますが、それは世田谷のほうに祀られてからになるようです。
(お社は宮城の八幡神社から譲られたとか、私八幡さまにご縁があるのでちょっと嬉しいです。
松蔭も何か関係があるのかもしれない)
世田谷の松蔭神社は長州藩の武家屋敷があった場所らしく、小伝馬町で処刑された松蔭の首を高杉らが持ち帰り墓を作り、後に神社を建てて御霊を祀ったという経緯があります。
ですので松蔭神社の境内にはお墓もきちんとありますので、ぜひご挨拶してください。
私は年に数回参拝しては、お墓も訪ね、甘党だったと言われる松蔭先生に近くのコンビニで買ったまんじゅうをお供えして、講孟箚記を手に手をあわせます。
感謝の心を以って。
萩にも松蔭神社はありますが、それは世田谷のほうに祀られてからになるようです。
(お社は宮城の八幡神社から譲られたとか、私八幡さまにご縁があるのでちょっと嬉しいです。
松蔭も何か関係があるのかもしれない)
世田谷の松蔭神社は長州藩の武家屋敷があった場所らしく、小伝馬町で処刑された松蔭の首を高杉らが持ち帰り墓を作り、後に神社を建てて御霊を祀ったという経緯があります。
ですので松蔭神社の境内にはお墓もきちんとありますので、ぜひご挨拶してください。
私は年に数回参拝しては、お墓も訪ね、甘党だったと言われる松蔭先生に近くのコンビニで買ったまんじゅうをお供えして、講孟箚記を手に手をあわせます。
感謝の心を以って。
2013年8月17日土曜日
玉木文之進〜吉田松陰の教育者
吉田松陰という人物を見る際に欠かせないのが叔父、玉木文之進です。
兵学家の後取りとして幼少より吉田松陰を厳しくした玉木翁はその思想の核を作りあげたともいえます。
話しはそれて、吉田松陰の思想は多くの弟子達によって受け継がれていくことになりますが、直系という流れで見ると、幕末から昭和までは
玉木文之進→吉田松陰→玉木文之進→乃木希典→昭和天皇
このような流れで受け継がれたと言えます。
(※乃木希典は松陰の遠縁にあたり、明治・日露戦争を勝利に導き軍神と讃えられた近代日本を生きた最後の武士といえる人物。吉田松陰と直接対面はなかったようだが、玉木文之進の教育を介してその教えは伝わっていると思われる。後に乃木は幼少期の昭和天皇の教育係となっているがその骨子となる教えは玉木文之進や吉田松陰、そして自身が全うした武士道が根幹にある。この視点で見ると少なくとも昭和までは吉田松陰の精神は近代日本に生き続けたと捉えられる)
さてそんな乃木希典が回想する玉木文之進翁のエピソードを以下に紹介します。
玉木文之進がいかに優れた教育者だったかを感じるエピソードであり、且つ幼少期の松陰とそっくりな教育環境で乃木が一体どんなことを教わったのか、色々想像してしまう面白い内容です。
以下、乃木が16歳の時の回想、片瀬遊泳場での学習院生徒に話す
余は生来体質虚弱なかりしかば、武士の家には生まれながらも、家に伝ふる武家礼法などを好み、又文学の方に志を向け、武芸の方をば甚だ疎にしたり。或時学者となりて身を立てんとの志を起し、家父の許可を請いしに、家父は武士の家に生まれたる者が、かかる懦弱なる事にては宜しからずとて、断然として許可せざりき。余は止むを得ず、無断にて家を出て、萩の城下に近き松本村(現山口県萩市松本市)に赴きて、予て家父とも親しみ深かりし親戚なる玉木文之進翁を訪ひ、其の志を述べて同情を乞い、其の家に留めて学問をせしめられんことを願ひたりしに、玉木翁は一方ならず無断の家出を怒りて、余を叱斥し、且つ言ふやう、武士の家に生まれて武芸を好まずば、百姓をせよ。百姓せんとならば、我家にも幸ひ聊かの山林田畑もあれば、兎も角留まりて、見習いをなすべし。学問の志を改めずば、暫しも留め置き難し。早々立帰るべしと。時既に夜に入りしかど、余は素志に背くことなれば、此処に留まるも無益なりとて立出でたるに、門に達せる頃、夫人追ひ掛け来り、今頃立出でて如何にする積なるかと問はれたるを以て、余は直に故郷に立帰る積なりと答へるに、此の夜中にさることを為すは不可なり。今夜は翁に内々にて一泊さすべければ、明日帰宅せよと、いと深切にいたはりくれたるを以て、余も遂に一泊することとせり。其の夜夫人は余に向かひ御身は学問せん志なりと云ふ。然らば先ず試みに此の書を読むべしとて、論語を出して余が前に開かれぬ。余は之を読みしが、誤読も頗る多かりしかば、夫人は余の未熟を責め、此の如き事にて学者にならんとは分に過ぎたり。翁の許されざるも誠に理あり。御身若しいよいよ農業に従事せんとならば、自分は夜間御身の為に日本外史などを読みやらんと言はれたり。余は是に於て玉木家に留まらんとの決心をなし、夫人に向かつて仰に従ふべしと答へたり。かくて其の夜は過ぎ翌朝玉木翁に面して、いよいよ其の家に留められんことを請ひ、それより日々或は山林に行き、或は畑に行きなどして農事に携はれり。玉木翁は腰に大小を挿しながら、肥桶を荷ひ耕作をせられたり。余は碌々撃剣も学びたることなかりしかば、重き鍬鎌を採りて耕作に従事するは誠に困難なしを以て、初は茶を運び、農具を携へ行くなどの手伝をなせるのみ。其の後に至りても幾度か困難に堪へずして玉木家を去らんとの念も生じたけれど、なほ暫く忍耐する内に次第に事慣れて、終には困難とも思はず、大に興味を生ずるに至れり。農耕の暇には畑中にて玉木翁より学問上の話しも聞き、夜に入れば、夫人が糸を紡ぐ傍らにて日本外史などを読み習ひたり。此の如くすること一年に及びしに、余が体力は著しく発達し、全く前日の面影を一変するに至りぬ。余は是に於て玉木翁の教育の効果の空しからざるを悟り、漸く武士としての修養を積まんと志すに至れり。
(講談社学術文庫「乃木希典」大濱徹也著、P26〜27より引用)
2013年8月16日金曜日
ご先祖様の墓前で
暑い日が続きますが、お盆はいかがお過ごしでしょうか。
帰省された方も多いと思いますが、その際お墓参りにいっていますか?
お墓参りでふと思い出したことを一つご紹介させて頂きます。
松陰先生が妹千代宛に宛てた手紙の中で、杉家(吉田松陰の生家)家訓について書いている手紙があるのですが、その中の一節に
「何か大事な決心をする時はご先祖様の墓前に報告すること」
という内容があります。
神社で祈願することは、比較的一般的なことだと思いますが、
自分のご先祖様に報告する方はあまりいないのではないでしょうか。
この手紙では女訓として「子供には嫁ぎ先の家の歴史を教え聴かせなさい」という話しから始まり、家、先祖の事について事細かく書かれています。
これは一体どういうことかなと考えさせられましたが、要はご先祖様を思うという行為は
自分はどういう背景で、どんな人から生まれたのか、自分自身のルーツを認識して生きて行くことが大事ですよ、という事かなと思いました。
現代では人と人との繋がりの希薄化が問題視されていますが、それは今同じ時間軸に生きている人達との繋がりだけではないと考えます。
例えば親戚間やご近所の繋がりも、もとを辿れば私達のご先祖さまから作られた繋がりであるかもしれないわけです。
『私達—先祖』という時空を超えた縦の繋がりを認識することで、自分の存在を再認識することに繋がる。
私はそう考えることにしました。
そんな意味でも、重大な決心—例えば新しく事業を始める、とか結婚する、とか、そういう大事なことをご先祖様の墓前に報告することはとても意味のあることのように思いませんか?
もうお盆も終わってしまいますが、何か大事な誓いがある方はぜひ、ご先祖様の墓前にきちんと報告してみてはいかがでしょうか。
決意も改まると思います。
帰省された方も多いと思いますが、その際お墓参りにいっていますか?
お墓参りでふと思い出したことを一つご紹介させて頂きます。
松陰先生が妹千代宛に宛てた手紙の中で、杉家(吉田松陰の生家)家訓について書いている手紙があるのですが、その中の一節に
「何か大事な決心をする時はご先祖様の墓前に報告すること」
という内容があります。
神社で祈願することは、比較的一般的なことだと思いますが、
自分のご先祖様に報告する方はあまりいないのではないでしょうか。
この手紙では女訓として「子供には嫁ぎ先の家の歴史を教え聴かせなさい」という話しから始まり、家、先祖の事について事細かく書かれています。
これは一体どういうことかなと考えさせられましたが、要はご先祖様を思うという行為は
自分はどういう背景で、どんな人から生まれたのか、自分自身のルーツを認識して生きて行くことが大事ですよ、という事かなと思いました。
現代では人と人との繋がりの希薄化が問題視されていますが、それは今同じ時間軸に生きている人達との繋がりだけではないと考えます。
例えば親戚間やご近所の繋がりも、もとを辿れば私達のご先祖さまから作られた繋がりであるかもしれないわけです。
『私達—先祖』という時空を超えた縦の繋がりを認識することで、自分の存在を再認識することに繋がる。
私はそう考えることにしました。
そんな意味でも、重大な決心—例えば新しく事業を始める、とか結婚する、とか、そういう大事なことをご先祖様の墓前に報告することはとても意味のあることのように思いませんか?
もうお盆も終わってしまいますが、何か大事な誓いがある方はぜひ、ご先祖様の墓前にきちんと報告してみてはいかがでしょうか。
決意も改まると思います。
2013年6月30日日曜日
聖賢の貴ぶ所は
聖賢の貴ぶ所は、議論に在らずして、事業に在り。
多言を費やすことなく、積誠之を蓄へよ。
「久坂生の文を評す」
【訳】
立派な人が大事にするのは、議論ではなく、行動である。ぺらぺら喋っていてはいけない。人としての誠をしっかり蓄えなさい。
〔致知出版社「吉田松陰一日一言」川口雅昭=編 より〕
===============
大きな志や大きな問題ほどとかく議論しがちになりますが、実行あるのみです。
常々肝に銘じておきたい言葉です。
〔致知出版社「吉田松陰一日一言」川口雅昭=編 より〕
===============
大きな志や大きな問題ほどとかく議論しがちになりますが、実行あるのみです。
常々肝に銘じておきたい言葉です。
2013年3月17日日曜日
第二回 講孟劄記輪読会
2月23日、第二回目の輪読会が行われました。
前回とはまた違う方も参加され徐々に人数も増えてきそうです。
松陰先生に学びたい方はふるってご参加下さい。
次回は4月6日、御茶ノ水の再生日本21事務所にて。
講孟劄記輪読会記帳
koumou.blogspot.com/
Facebookはこちら→ja-jp.facebook.com/comosakki.shoin
前回とはまた違う方も参加され徐々に人数も増えてきそうです。
松陰先生に学びたい方はふるってご参加下さい。
次回は4月6日、御茶ノ水の再生日本21事務所にて。
講孟劄記輪読会記帳
koumou.blogspot.com/
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2013年1月20日日曜日
講孟劄記の輪読会を開始
昨日、初の講孟劄記輪読会を志塾関係のメンバーで行いました。
和気あいあいと、ですが松陰先生の厳しい言葉を噛み締めながらの非常に有意義な時間でした。
輪読会から終了後の飲み会まで、松陰先生のこと、日本の政治経済のこと、その根本である自分自身について等、様々なことを話し合いました。
和気あいあいと、ですが松陰先生の厳しい言葉を噛み締めながらの非常に有意義な時間でした。
輪読会から終了後の飲み会まで、松陰先生のこと、日本の政治経済のこと、その根本である自分自身について等、様々なことを話し合いました。
巻末読破までの継続が目標です。
2013年1月1日火曜日
千代宛、新年の祝儀〜新年御目出度うの意味
明けまして御目出度う御座います。
新年ということで、松陰先生の妹千代宛の手紙に書かれた新年の教えを以下ご紹介させて頂きます。
妹千代宛-安政二年正月元旦(吉田松陰全集、大和書房より)
◾
弟妹の為に新年の祝儀申し候。善く聞き候べし。
先づ新年御目出度う御座ります。宜い御年を召しましたろう。扠(さ)て新年とは、にひなとしと云ふ事ぞ。にひなとは新(にい)な着物、新たな道具等にて考へて見よ、垢も付かず、傷もない立派なものを云ふぞ。
着物や道具の新なは分かりたが、年がにひなと云ふでは、ちつと不分かりではないか。そして又其のにひなが目出度いとは、尚更不分かりではないか。
分からずば申さう。年も古びると垢も付くてや、傷も付くてや、夫れでにひなとしが御目出度いてや。凡そ人といふものは気持ちが難しいもので、節季師走になると成ると、えい今年は今わづかぢや、破れこぶれぢや、来年からこそおのれといふではないか。
夫れが年のあかつき、傷付いた所ぢや。
扠て一夜明けると気がしゃんとして、心からにひなになるものぢや。そこで新年御目出度いではないか。
しかし右の講釈で新年の譯(やく)は分かつたが、まだ御目出度いのが分かるまい。目出度いといふがいったい難しい事ぢやてや。目と云ふは目玉の事ではない、目玉共が元日から出たら、ろくな事ではあるまい。目と云ふは木の芽、草の芽の事ぢやわい。木草の芽は冬至からして、一日一日の陽気(はるのき)が生ずるにしたがうて、草も木も萌え出づるなり。この陽気と云ふものは物をそだつる気にて、人の仁愛慈悲の心と同様にて、天地にとりても人間にとりてもこのましき気なり。
故に陽気が生じて、草も木もめでたいと思ふが御目出度いなり。夫れで新年の御目出度いも分かるではないか。前にも申す通り、一夜明けると人の気がしやんとして、破れ気もきたな心ま皆洗ひ揚げて、人の本心なる仁氣慈悲の心も出てくる事、てうど草木の芽の出ると同じことではなきか。夫れ故新年御目出度うござります。
宜しい御年を召しましたらうと云ふも、この心で考へて見れば分かる。
子供の時分には人が年をとるとる云ふから、なんでもいつの間に取るやら合点が行かざつた。寝た間に取るに違ひはないが、どう云ふものやらとばかりに不審に思うて居たが、今で考へて見れば夫れは真の小ども心であつた。よいとしと云ふは外な事ではない、やはり右の気がしやんとするのがよいとしを取つたと云ふものぢや。
此の考がないと、百になりても二百になりても、一もほんとの歳はとりはよせん。夫れぢやから小供のをり、こんな子は歳をどこへ取るかよと云ふて叱られた時、とんと言譯(いいわけ)は出来はせん。言譯が出来ん筈ぢやわ、取る時からほんとに取らんものを。夫れ故歳を取る事も序手(ついで)に講釈せう。
歳と云ふものは、柄(から)だ一杯へ取るから、先づ心へ歳を取れば是非善悪の区別もつかねばならず、耳へ歳を取れば是非善悪の聞分もせんねばならず、目へ歳を取れば是非善悪の見分けもせんねばならず、口へ歳を取れば是非善悪の申し訳もせんねばならず、頭へも足へも、どこへもかしこへも、取らねばならぬこそ年なり。是れが先づ新年の御祝儀申し初めなり。尚ほ書初めいたし候。此の譯大兄様に能々御聞き候べくなり。
◯孟子は平旦の氣さへ賞玩す、況や新年の氣をや。賀せずして巳むべけんや。
◯阿久•阿安、手習は出精するか。書初ども見せ見せ。歳徳さまへ上げたか上げたか。
新年ということで、松陰先生の妹千代宛の手紙に書かれた新年の教えを以下ご紹介させて頂きます。
妹千代宛-安政二年正月元旦(吉田松陰全集、大和書房より)
◾
弟妹の為に新年の祝儀申し候。善く聞き候べし。
先づ新年御目出度う御座ります。宜い御年を召しましたろう。扠(さ)て新年とは、にひなとしと云ふ事ぞ。にひなとは新(にい)な着物、新たな道具等にて考へて見よ、垢も付かず、傷もない立派なものを云ふぞ。
着物や道具の新なは分かりたが、年がにひなと云ふでは、ちつと不分かりではないか。そして又其のにひなが目出度いとは、尚更不分かりではないか。
分からずば申さう。年も古びると垢も付くてや、傷も付くてや、夫れでにひなとしが御目出度いてや。凡そ人といふものは気持ちが難しいもので、節季師走になると成ると、えい今年は今わづかぢや、破れこぶれぢや、来年からこそおのれといふではないか。
夫れが年のあかつき、傷付いた所ぢや。
扠て一夜明けると気がしゃんとして、心からにひなになるものぢや。そこで新年御目出度いではないか。
しかし右の講釈で新年の譯(やく)は分かつたが、まだ御目出度いのが分かるまい。目出度いといふがいったい難しい事ぢやてや。目と云ふは目玉の事ではない、目玉共が元日から出たら、ろくな事ではあるまい。目と云ふは木の芽、草の芽の事ぢやわい。木草の芽は冬至からして、一日一日の陽気(はるのき)が生ずるにしたがうて、草も木も萌え出づるなり。この陽気と云ふものは物をそだつる気にて、人の仁愛慈悲の心と同様にて、天地にとりても人間にとりてもこのましき気なり。
故に陽気が生じて、草も木もめでたいと思ふが御目出度いなり。夫れで新年の御目出度いも分かるではないか。前にも申す通り、一夜明けると人の気がしやんとして、破れ気もきたな心ま皆洗ひ揚げて、人の本心なる仁氣慈悲の心も出てくる事、てうど草木の芽の出ると同じことではなきか。夫れ故新年御目出度うござります。
宜しい御年を召しましたらうと云ふも、この心で考へて見れば分かる。
子供の時分には人が年をとるとる云ふから、なんでもいつの間に取るやら合点が行かざつた。寝た間に取るに違ひはないが、どう云ふものやらとばかりに不審に思うて居たが、今で考へて見れば夫れは真の小ども心であつた。よいとしと云ふは外な事ではない、やはり右の気がしやんとするのがよいとしを取つたと云ふものぢや。
此の考がないと、百になりても二百になりても、一もほんとの歳はとりはよせん。夫れぢやから小供のをり、こんな子は歳をどこへ取るかよと云ふて叱られた時、とんと言譯(いいわけ)は出来はせん。言譯が出来ん筈ぢやわ、取る時からほんとに取らんものを。夫れ故歳を取る事も序手(ついで)に講釈せう。
歳と云ふものは、柄(から)だ一杯へ取るから、先づ心へ歳を取れば是非善悪の区別もつかねばならず、耳へ歳を取れば是非善悪の聞分もせんねばならず、目へ歳を取れば是非善悪の見分けもせんねばならず、口へ歳を取れば是非善悪の申し訳もせんねばならず、頭へも足へも、どこへもかしこへも、取らねばならぬこそ年なり。是れが先づ新年の御祝儀申し初めなり。尚ほ書初めいたし候。此の譯大兄様に能々御聞き候べくなり。
◯孟子は平旦の氣さへ賞玩す、況や新年の氣をや。賀せずして巳むべけんや。
◯阿久•阿安、手習は出精するか。書初ども見せ見せ。歳徳さまへ上げたか上げたか。
2012年10月5日金曜日
講孟箚記-公孫丑上篇-第四章 〜幸も不幸も自分次第
講孟箚記-公孫丑上篇-第四章■
「禍福は己より之を求めざる者なし」
この章は、二つの「是の時に及んで」という語が使われている。朱子の註は、このどちらに対しても「ただ日も足らず」、いくら努力しても、なお時間が足りないの意味であるといっている。この註は最も道理が深く味わうべきである。
今や、東よりアメリカ、西よりヨーロッパの諸国が、わが国にせまって来ているが、当局は、本意を枉(マ)げて彼の意に従うのみである。地図を開いてこの情勢を検討してみると、蝦夷のクシュンコタンは既にロシア人が城塁を築いており、松前の箱館と伊豆の下田は、すでにアメリカ人の貿易場となり、肥前の長崎には、イギリスやフランスの来航が頻繁である。
その外、武蔵の神奈川、志摩の鳥羽、摂津の難波などは、外国人がすでに去ったものの、彼らの臭気、まだ消えていない。
以上から見て、わが国のうち、彼らの汚れを受けていない土地は、どれ程であるか。上に在るものは政治教育を修め、士太夫たるものはその学問武芸を練り、農・工・商の人々はそれぞれ自分の仕事に勤め、かくして上下力を合せて、災事を未然に防ぐべく努力し、当局者たるもの、民衆の侮りを受けぬようにするべきである。
しかるに現在の国情はこれに反し、この機に乗じて、ただ日も足らぬというありさまで、日夜遊びほうけているのは、何事であるか。古今を通じ、慨嘆を同じゅうするものである。
「禍福は己より之を求めざる者なし」、禍も福も、いずれも自分の心掛けが招くのである、というこのことばは、甚だ道理が深い。禍の字も福の字も、いずれも示編(しめすへん)に基づく文字である。およそ示編の字は、神・祇・祥・禎の類でわかるように、みな神に関係がある文字である。
それ故に、禍福というのは、世間でいう、天罰があたるとか、神罰を蒙る、または神の恵みを受ける、天の福を承ける、という類いのことである。古今ともに、道理にくらい人間の人情は同じことで、とかく天や神が人間に禍や福を降すように思っているので、孟子は特に、「禍福は天から降るのではない、神より出るのではない、全て自分の方から求めるのである」といったのである。この道理が理解できて、初めて共に道の世界に入ることができるのである。
この道理を理解していない人間は、天や神にばかり諛(ヘツラ)って、自分の行動は修めようとしないのである。この態度を、「福を辞して禍を求める」、自分から幸福と離別して禍いを求めるというのである。
つまらぬ人間の行為は、全てこのようである。気の毒なことだ。
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
==================
皇国の皇国たる所以を説く松陰先生は、日本における本来の神の道についても至る所で言及しており(妹宛の手紙などにも書かれている)はっとさせられるものがある。
神と向き合うということは自分と向き合うということ。 神様は何かをお願いする対象になってしまっているが、古来より身の回りに神々を見いだし生活してきた日本人としては、本来の神の道についても改めて考えたい。
この章については『家之本在身』も是非併せてお読み下さい。
「禍福は己より之を求めざる者なし」
この章は、二つの「是の時に及んで」という語が使われている。朱子の註は、このどちらに対しても「ただ日も足らず」、いくら努力しても、なお時間が足りないの意味であるといっている。この註は最も道理が深く味わうべきである。
今や、東よりアメリカ、西よりヨーロッパの諸国が、わが国にせまって来ているが、当局は、本意を枉(マ)げて彼の意に従うのみである。地図を開いてこの情勢を検討してみると、蝦夷のクシュンコタンは既にロシア人が城塁を築いており、松前の箱館と伊豆の下田は、すでにアメリカ人の貿易場となり、肥前の長崎には、イギリスやフランスの来航が頻繁である。
その外、武蔵の神奈川、志摩の鳥羽、摂津の難波などは、外国人がすでに去ったものの、彼らの臭気、まだ消えていない。
以上から見て、わが国のうち、彼らの汚れを受けていない土地は、どれ程であるか。上に在るものは政治教育を修め、士太夫たるものはその学問武芸を練り、農・工・商の人々はそれぞれ自分の仕事に勤め、かくして上下力を合せて、災事を未然に防ぐべく努力し、当局者たるもの、民衆の侮りを受けぬようにするべきである。
しかるに現在の国情はこれに反し、この機に乗じて、ただ日も足らぬというありさまで、日夜遊びほうけているのは、何事であるか。古今を通じ、慨嘆を同じゅうするものである。
「禍福は己より之を求めざる者なし」、禍も福も、いずれも自分の心掛けが招くのである、というこのことばは、甚だ道理が深い。禍の字も福の字も、いずれも示編(しめすへん)に基づく文字である。およそ示編の字は、神・祇・祥・禎の類でわかるように、みな神に関係がある文字である。
それ故に、禍福というのは、世間でいう、天罰があたるとか、神罰を蒙る、または神の恵みを受ける、天の福を承ける、という類いのことである。古今ともに、道理にくらい人間の人情は同じことで、とかく天や神が人間に禍や福を降すように思っているので、孟子は特に、「禍福は天から降るのではない、神より出るのではない、全て自分の方から求めるのである」といったのである。この道理が理解できて、初めて共に道の世界に入ることができるのである。
この道理を理解していない人間は、天や神にばかり諛(ヘツラ)って、自分の行動は修めようとしないのである。この態度を、「福を辞して禍を求める」、自分から幸福と離別して禍いを求めるというのである。
つまらぬ人間の行為は、全てこのようである。気の毒なことだ。
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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皇国の皇国たる所以を説く松陰先生は、日本における本来の神の道についても至る所で言及しており(妹宛の手紙などにも書かれている)はっとさせられるものがある。
神と向き合うということは自分と向き合うということ。 神様は何かをお願いする対象になってしまっているが、古来より身の回りに神々を見いだし生活してきた日本人としては、本来の神の道についても改めて考えたい。
この章については『家之本在身』も是非併せてお読み下さい。
2012年9月29日土曜日
講孟箚記-尽心下篇-第九章 〜徳とは
講孟箚記-尽心下篇-第九章■
「徳を尊び義を楽しめば、自然に無欲になり平然としておることができる。それ故に士たるものは、どんなに困窮しても義を失うことがなく、どんなに栄達しても道を離れることができない。困窮しても義を失わず、栄達しても道を離れないから、民衆の期待に負くことがない。昔の賢人は、志を得て要路に就いたならば、民衆に広く恩沢を施し、志を得ることができずに民間にあったならば、修養して有徳の人としての名声が世に現れたものである。されば、困窮の身であったならばひとり我が身を修め、栄達したならば、天下の人々を等しく善に導かねばならないのである」
―本章は、大いに同感であるので、繁を厭わず、その全文を挙げておいた。いくたびも読み返して欲しいと思う。
さて、「囂々(ゴウゴウ)」、無欲で心が平らか、という二字が、全体の主意であり、「尊徳楽義」、徳を尊び義を楽しむ、という四字が、そうなるための工夫を述べたのものである。
「尊徳」という語には二つの意味があり、その一は公孫丑下篇第二章に「その徳を尊び」云々、このように徳を尊び道を楽しむのでなければ、いっしょに仕事をすることはできません、という尊徳で、これは徳のある人を尊崇するという意味であり、本章もその意味で通るのである。
今一つは『中庸』に「徳性を学ぶ」と見えるもので、これは自分のうちにある徳性、すなわち人格を大切にし失わぬようにするという意味である。しかし、徳といえば、自分のものでも人のものでも結局は同じであって、自分にあるものを大切にするから人にあるものを大切にするのであり、本来、自他一貫の問題である。つまりは、本章の徳という文字は、自分の徳とも人の徳ともいっておらず、ただ徳とのみあるのであり、「楽義」、義を楽しむの義についても同じことである。
このようにして天下の人々の徳義を大切にして、自他の区別をしないからこそ、囂々然として、平然として無欲になることができるのである。およそ士たる者は、どんなに困窮しても、どこまでも士たるの覚悟を失うことなく、また、立身出世したとしても、富貴に溺れて平生の志を亡くしてしまうこともなく、よい政治を行い、民衆に恩沢を施して、彼らの期待にそうべきものである。
しかるにわたくしが、今の世の中を見通すのに、栄達しても道から離れぬものは少なく、貧賤であった時や、少壮であった日に、書物を放さず経書を研究していた時の議論と、要路に登って政治を執るようになってからの実際行動との間に、多くは違いがあるものである。
しかしこれには、やむを得ぬ事情もあることであろうから、これについては、わたくしは議論しようと思わない。
ただし、どんなに困窮しても義を失わぬということになると、これはわが身の上に切実の問題であるから、努力しなければならない。
わたくしは、甲寅(安政元年)渡海に敗れて獄に入ってからこのかた、身の自由は奪われ、三百里の遠路を檻輿で走り、六百日を牢に暮した。今日は、その禁錮はやや緩くなったとはいえ、足は門より出ることなく、近親以外の人とは、会うことを遠慮している。されば、これは困窮の身といってよいであろう。
しかしながら、わが志に至っては、この松本村はよし小さくとも、ここより一二の俊傑を生み出し、その人によって忠孝を首唱して、天下の先駆となりたいと願っている。
しかしながらわたくしが、義を失わないか、それとも義を失うことが多いかについては自信を持つことができないので、『孟子』をとって研究し、わが行動の道義に適っているか否かを尋ねようと思っている。
なお「独善」、独り善くす、ということの意味については、滕文公下篇第四章に「入りては則ち」云々、家にあっては親に孝、外にあっては長上によく仕え、古聖王の樹てた道を守ってその実現を後の学徒に期待する、といっており、本篇の第三十二章に「其の子弟これに従へば」云々、その国の若者が、この人物について学べば、孝悌忠信の人物になることができる、といっているのを、合わせ考えるとよい。
思うに「独善」というものは、頑固にひとり交際せずに暮していることをいうのではない。
「兼ねて天下を善くす」という語に対して、特にその人の恩沢の及ぶ範囲が小さいということを述べたものに外ならぬのでる。もしそうでなければ、「若者がこの人物について学ぶ」とか「後の学徒に期待する」とかいうことは、「独善」ではなくなってしまうのである。
わたくしが野山の獄にあった時、同囚の富永有隣のために、その名字の説を作った。その文のうちに、「独善の志があって始めて兼善、全ての人々を善くする、という仕事が生まれる」とか、「偉大なる舜帝は、みずから耕作したり陶器を作ったり、魚釣をしたりしたが、それに関わらずその徳、人々に仰がれて都君と呼ばれ、孔子は、魯・衛・陳・蔡の諸国に遊説して苦しんだが、その道を慕う三千人もの門人があった」と記した。有隣は強情の人物で、自説を決して屈しようとしないが、深くこの説を至言とした。思うに、わたくしと彼との平生の志が、ここにあるからであろう。されば今から数年後には、必ず微効があらわれるものと信じている。
================
「徳を尊び義を楽しめば、自然に無欲になり平然としておることができる。それ故に士たるものは、どんなに困窮しても義を失うことがなく、どんなに栄達しても道を離れることができない。困窮しても義を失わず、栄達しても道を離れないから、民衆の期待に負くことがない。昔の賢人は、志を得て要路に就いたならば、民衆に広く恩沢を施し、志を得ることができずに民間にあったならば、修養して有徳の人としての名声が世に現れたものである。されば、困窮の身であったならばひとり我が身を修め、栄達したならば、天下の人々を等しく善に導かねばならないのである」
―本章は、大いに同感であるので、繁を厭わず、その全文を挙げておいた。いくたびも読み返して欲しいと思う。
さて、「囂々(ゴウゴウ)」、無欲で心が平らか、という二字が、全体の主意であり、「尊徳楽義」、徳を尊び義を楽しむ、という四字が、そうなるための工夫を述べたのものである。
「尊徳」という語には二つの意味があり、その一は公孫丑下篇第二章に「その徳を尊び」云々、このように徳を尊び道を楽しむのでなければ、いっしょに仕事をすることはできません、という尊徳で、これは徳のある人を尊崇するという意味であり、本章もその意味で通るのである。
今一つは『中庸』に「徳性を学ぶ」と見えるもので、これは自分のうちにある徳性、すなわち人格を大切にし失わぬようにするという意味である。しかし、徳といえば、自分のものでも人のものでも結局は同じであって、自分にあるものを大切にするから人にあるものを大切にするのであり、本来、自他一貫の問題である。つまりは、本章の徳という文字は、自分の徳とも人の徳ともいっておらず、ただ徳とのみあるのであり、「楽義」、義を楽しむの義についても同じことである。
このようにして天下の人々の徳義を大切にして、自他の区別をしないからこそ、囂々然として、平然として無欲になることができるのである。およそ士たる者は、どんなに困窮しても、どこまでも士たるの覚悟を失うことなく、また、立身出世したとしても、富貴に溺れて平生の志を亡くしてしまうこともなく、よい政治を行い、民衆に恩沢を施して、彼らの期待にそうべきものである。
しかるにわたくしが、今の世の中を見通すのに、栄達しても道から離れぬものは少なく、貧賤であった時や、少壮であった日に、書物を放さず経書を研究していた時の議論と、要路に登って政治を執るようになってからの実際行動との間に、多くは違いがあるものである。
しかしこれには、やむを得ぬ事情もあることであろうから、これについては、わたくしは議論しようと思わない。
ただし、どんなに困窮しても義を失わぬということになると、これはわが身の上に切実の問題であるから、努力しなければならない。
わたくしは、甲寅(安政元年)渡海に敗れて獄に入ってからこのかた、身の自由は奪われ、三百里の遠路を檻輿で走り、六百日を牢に暮した。今日は、その禁錮はやや緩くなったとはいえ、足は門より出ることなく、近親以外の人とは、会うことを遠慮している。されば、これは困窮の身といってよいであろう。
しかしながら、わが志に至っては、この松本村はよし小さくとも、ここより一二の俊傑を生み出し、その人によって忠孝を首唱して、天下の先駆となりたいと願っている。
しかしながらわたくしが、義を失わないか、それとも義を失うことが多いかについては自信を持つことができないので、『孟子』をとって研究し、わが行動の道義に適っているか否かを尋ねようと思っている。
なお「独善」、独り善くす、ということの意味については、滕文公下篇第四章に「入りては則ち」云々、家にあっては親に孝、外にあっては長上によく仕え、古聖王の樹てた道を守ってその実現を後の学徒に期待する、といっており、本篇の第三十二章に「其の子弟これに従へば」云々、その国の若者が、この人物について学べば、孝悌忠信の人物になることができる、といっているのを、合わせ考えるとよい。
思うに「独善」というものは、頑固にひとり交際せずに暮していることをいうのではない。
「兼ねて天下を善くす」という語に対して、特にその人の恩沢の及ぶ範囲が小さいということを述べたものに外ならぬのでる。もしそうでなければ、「若者がこの人物について学ぶ」とか「後の学徒に期待する」とかいうことは、「独善」ではなくなってしまうのである。
わたくしが野山の獄にあった時、同囚の富永有隣のために、その名字の説を作った。その文のうちに、「独善の志があって始めて兼善、全ての人々を善くする、という仕事が生まれる」とか、「偉大なる舜帝は、みずから耕作したり陶器を作ったり、魚釣をしたりしたが、それに関わらずその徳、人々に仰がれて都君と呼ばれ、孔子は、魯・衛・陳・蔡の諸国に遊説して苦しんだが、その道を慕う三千人もの門人があった」と記した。有隣は強情の人物で、自説を決して屈しようとしないが、深くこの説を至言とした。思うに、わたくしと彼との平生の志が、ここにあるからであろう。されば今から数年後には、必ず微効があらわれるものと信じている。
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2012年9月24日月曜日
講孟箚記-離婁下篇-第二十六章 〜 学問は実践であれ
講孟箚記-離婁下篇-第二十六章■
「天下の性を言ふや、則ち故(アト)のみ」
人間の本性は、宇宙の理が人間のうちに内在しているものであり、同時に心として人間の主体をなしているものである。しかしながら、性といっても理といっても心といっても、見聞することのできる形色声臭とて無き無形のものであるが、ただそれが過去にどうであったかという跡をたどって見るならば自然にこれを明白にすることができる。この過去にどうであったかという跡を「故」というのである。
凡そ空理空論ばかりをもてあそんで、実際の問題についての究明実践をゆるがせにするのは、学者共通の欠陥である。しかしこれは、観念論者が口にするところであって、篤学実行の人物にとっては、聞くことを欲せぬことである。
それ故に孟子は、人の本性の善なることを説く時には、観念に流れぬように、堯・舜を例として、具体的にこれを語っているのである。
また孟子のことばのうちにある「牽牛」の譬、すなわち斉の宣王は、殺してその血を鐘に塗らるべく彼の前を牽かれてゆく牛の哀れな姿を見て、同情にたえなかったという話や、「赤子入井(セキシニュウセイ)」、幼児が誤って井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でもみなハッと驚くという話など、みな、行為の跡が明らかに見られるものを挙げて人に示したものであり、決して空理空論は説いていないのである。ここが、学者の最も考えるべきところである。
しかるに実際はこれと反対に本性・理・心を分析してこれを詳細に論じていながら、忠孝節義、すなわち我々の道義実践の上において、全く関係のない議論が、しばしばあるのである。
例えば読書の方法についてこれを見よう。
世の中には、経書を読むことを好んで史書を読まぬものがあるが、これは大いに誤っている。
わたくしは常に史書を読んで、古人の実践の跡を見て、わが志を励ますことを好んでいる。これもまた「故のみ」、過去の足跡に外ならぬ、というものである。
孔子のおことばに、「われこれを空言に載せんと欲するは、これを行事に載するの親切著明なるに如かず」、抽象論として説明するよりも、具体的事実の上で説明する方が、遥かに親切明白である、とあるのは、思うにこの意味である。
「天下の性を言ふや、則ち故(アト)のみ」
人間の本性は、宇宙の理が人間のうちに内在しているものであり、同時に心として人間の主体をなしているものである。しかしながら、性といっても理といっても心といっても、見聞することのできる形色声臭とて無き無形のものであるが、ただそれが過去にどうであったかという跡をたどって見るならば自然にこれを明白にすることができる。この過去にどうであったかという跡を「故」というのである。
凡そ空理空論ばかりをもてあそんで、実際の問題についての究明実践をゆるがせにするのは、学者共通の欠陥である。しかしこれは、観念論者が口にするところであって、篤学実行の人物にとっては、聞くことを欲せぬことである。
それ故に孟子は、人の本性の善なることを説く時には、観念に流れぬように、堯・舜を例として、具体的にこれを語っているのである。
また孟子のことばのうちにある「牽牛」の譬、すなわち斉の宣王は、殺してその血を鐘に塗らるべく彼の前を牽かれてゆく牛の哀れな姿を見て、同情にたえなかったという話や、「赤子入井(セキシニュウセイ)」、幼児が誤って井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でもみなハッと驚くという話など、みな、行為の跡が明らかに見られるものを挙げて人に示したものであり、決して空理空論は説いていないのである。ここが、学者の最も考えるべきところである。
しかるに実際はこれと反対に本性・理・心を分析してこれを詳細に論じていながら、忠孝節義、すなわち我々の道義実践の上において、全く関係のない議論が、しばしばあるのである。
例えば読書の方法についてこれを見よう。
世の中には、経書を読むことを好んで史書を読まぬものがあるが、これは大いに誤っている。
わたくしは常に史書を読んで、古人の実践の跡を見て、わが志を励ますことを好んでいる。これもまた「故のみ」、過去の足跡に外ならぬ、というものである。
孔子のおことばに、「われこれを空言に載せんと欲するは、これを行事に載するの親切著明なるに如かず」、抽象論として説明するよりも、具体的事実の上で説明する方が、遥かに親切明白である、とあるのは、思うにこの意味である。
〈参考〉
経史を一体とする松陰の学問の本領が、ここに明瞭に語られている。空理を弄して抽象論・観念論に流れることを排し、あくまで実際に基づいて具体的に究明体察しようとするところに、東洋の学問の特質が存在する。
『箚記』に引かれている孔子の言葉は、これをよく示していて、後世の学者の大きな指針となり指標となっており、例えば浅見絅斎藤が自ら著した『靖献遺言』を講義して、
蓋し空言を以て義理を説くは、実に其の事歴を挙げて閲(ケミ)するの、尤も親切にして
感発興起餘りあるにしかず。
といっているのも、これによったものである。
なお絅斎の高弟、若林強斎の『梅津某の問目に答ふ』と題する文のうちには
凡そ学者、空理を汎論することを好みて、而して聖賢の書に就いてこれを講究することを要めず、これ、通病(ツウヘイ)なり。
とあり、学者の抽象論・観念論が、古来の通弊であることを語っている。
松陰が人倫を説き、遺俗・流風を説き、そして急激なる改革を悦ばず、理念の産物というべき革命を拒否したのも、先人の努力の足跡を凝視するが故である。
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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実学を重んじる松陰先生らしい言葉。
参考の末文にあるように、松陰先生は先人から受け継いできたものを大切にするように説いている。幕末の革命の先駆者と称されるが、松陰先生の真髄はそれまで築いてきたものを壊せというものではなく、しっかり見つめ直して本来のあるべき日本を、大和魂を取り戻そうというもの。
ここを間違えてはいけません。
先祖代々より受けた恩を子々孫々まで継承する。
今の私達はご先祖さまあってのもの。
そしてそれを将来へ受け継いでいかなければいけない。
これはわが米沢の名君、上杉鷹山公も伝国の辞にて述べていることです。
現在の日本において、目先のことしか考えずに発言・行動している私達が真剣に考えなければいけない根本的な問題です。
講孟箚記-離婁下篇-第二十七章 〜 礼について
講孟箚記-離婁下篇-第二十七章■
「礼」というものは、一定の規矩、中正の標準であって、人の行動をこれに照らして過不及なからしめるものである。しかるに世俗の人々の態度を見ると、恭しさの度を過し諂(ヘツラ)いになったものもあれば、傲、人におごるの度を過ぎて慢、人を侮るにまで陥っている者もある。これらはみな礼にはずれている。
もし本当に礼を実行しようと思うならば、孔子・孟子の行為によって知るのがよい。
孔子が主君のお招きを受けた時、堂の下で礼拝したのは、当時一般の堂上で礼拝したという慢に失した風潮を抑えて、礼に復帰しようとしたものである。
孟子が本章に見えるように、弔問に赴いた際、右師王驩と、彼ひとり口を開かなかったのは、人々が争って権力者にとり入ろうとする、諂いの態度を矯め直して礼に復帰させようとしたものである。
されば孔子も孟子も、その精神は等しいものであった。
現今、礼も習俗も、いずれも孔子・孟子の時代とは異なっているが、細かく考察すると、諂ったり慢(アナド)ったりして、礼を失っている人間は、無しとしないのである。
さればこの問題を深く考えてみることが大切である。
さらにまた、第十章「仲尼は巳甚だしきことを為さざる者」の意と互いに照らし合わせて、本旨を明白にすべきである。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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「礼」というものは、一定の規矩、中正の標準であって、人の行動をこれに照らして過不及なからしめるものである。しかるに世俗の人々の態度を見ると、恭しさの度を過し諂(ヘツラ)いになったものもあれば、傲、人におごるの度を過ぎて慢、人を侮るにまで陥っている者もある。これらはみな礼にはずれている。
もし本当に礼を実行しようと思うならば、孔子・孟子の行為によって知るのがよい。
孔子が主君のお招きを受けた時、堂の下で礼拝したのは、当時一般の堂上で礼拝したという慢に失した風潮を抑えて、礼に復帰しようとしたものである。
孟子が本章に見えるように、弔問に赴いた際、右師王驩と、彼ひとり口を開かなかったのは、人々が争って権力者にとり入ろうとする、諂いの態度を矯め直して礼に復帰させようとしたものである。
されば孔子も孟子も、その精神は等しいものであった。
現今、礼も習俗も、いずれも孔子・孟子の時代とは異なっているが、細かく考察すると、諂ったり慢(アナド)ったりして、礼を失っている人間は、無しとしないのである。
さればこの問題を深く考えてみることが大切である。
さらにまた、第十章「仲尼は巳甚だしきことを為さざる者」の意と互いに照らし合わせて、本旨を明白にすべきである。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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講孟箚記-尽心上篇-第十五章 〜 王陽明の悟り
講孟箚記-尽心上篇-第十五章■
本章は、その内容切実、文章簡易、まことに素晴らしい。
幼児が親を愛する心は、心の本質がそのまま現れたもの、すなわち仁であって、上に在るものが、この心で天下の親を見るならば、天下の人々もそれぞれ自分の親を見ること、童子がその親を愛するがごとくであり、同時に天下の親も、それぞれ自分の子を見ること、幼児を見るごとくにするであろう。
ここにおいて世の中に不孝の子も、不慈の親もなくなるのである。
そしてこの問題は、兄弟間においても同じ道理である。
古今、この章を読んだものの数は限りないのであるが、ただ※王陽明だけが、本章によって大いに悟り、ついに独自の学問を樹立し、後世全ての人々が彼に及ばぬのである。
以上の事実によって、書物は精思熟考するのでなければ、決してその源に逢いその流れを達する、道の根源を会得し、それを天下後世にゆきわたらせることはできぬのである。
また考えるに、「他なし、これを天下に達するなり」、重要なることは、親を愛し兄を敬う心を天下に推し及ぼすという一事である、という結論こそ、運用と工夫に関する沢山の内容を包含しているのである。これは離婁上篇第十一章の「人々、その親を親とし、その長を長として、天下平かなり」と同種のことばである。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
=====================
※注釈より
王陽明是に因りて・・・『王文成公年譜』(文成は陽明の諡)に、正徳十六年、五十歳、正月、南晶に居る、この歳、始めて到良知(良知を致す)の教えを掲げ、「我、この良知の二字、実に千古聖々相伝の一点一滴の骨血なり」といったと見える。
すなわち陽明は、道徳的判断力を以て人の先天固有のものとし、孟子の良知語(本章に
「人の学ばずして能くするものは、其の良能なり、慮らずして知るものは、其の良知なり」
とある)を、その依拠としたのである。
本章は、その内容切実、文章簡易、まことに素晴らしい。
幼児が親を愛する心は、心の本質がそのまま現れたもの、すなわち仁であって、上に在るものが、この心で天下の親を見るならば、天下の人々もそれぞれ自分の親を見ること、童子がその親を愛するがごとくであり、同時に天下の親も、それぞれ自分の子を見ること、幼児を見るごとくにするであろう。
ここにおいて世の中に不孝の子も、不慈の親もなくなるのである。
そしてこの問題は、兄弟間においても同じ道理である。
古今、この章を読んだものの数は限りないのであるが、ただ※王陽明だけが、本章によって大いに悟り、ついに独自の学問を樹立し、後世全ての人々が彼に及ばぬのである。
以上の事実によって、書物は精思熟考するのでなければ、決してその源に逢いその流れを達する、道の根源を会得し、それを天下後世にゆきわたらせることはできぬのである。
また考えるに、「他なし、これを天下に達するなり」、重要なることは、親を愛し兄を敬う心を天下に推し及ぼすという一事である、という結論こそ、運用と工夫に関する沢山の内容を包含しているのである。これは離婁上篇第十一章の「人々、その親を親とし、その長を長として、天下平かなり」と同種のことばである。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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※注釈より
王陽明是に因りて・・・『王文成公年譜』(文成は陽明の諡)に、正徳十六年、五十歳、正月、南晶に居る、この歳、始めて到良知(良知を致す)の教えを掲げ、「我、この良知の二字、実に千古聖々相伝の一点一滴の骨血なり」といったと見える。
すなわち陽明は、道徳的判断力を以て人の先天固有のものとし、孟子の良知語(本章に
「人の学ばずして能くするものは、其の良能なり、慮らずして知るものは、其の良知なり」
とある)を、その依拠としたのである。
2012年9月22日土曜日
講孟箚記-告子下篇-第四章 〜 利と仁義について
講孟箚記-告子下篇-第四章■
本章は、利と仁義との区別を論じていること、梁恵王上篇首章と同じであって、これこそ孟子が生涯変わることなかった意見であった。
さて宋コウは秦・楚二国の王に、戦争は国家にとって不利のものだといってこれを止めさせるといっているが、それは、戦いに勝っても、その結果、兵気はにぶり、財力は無くなってしまい、〔『孫子』作戦篇等にいっているとおりである〕まして、戦争は勝つものとは決まっていないし、その上、秦・楚の両国が戦うのは、二匹の虎が打ち合うようなもので、戦いが長引くために兵禍は増大し、韓・魏・斉・趙の諸国がそれにつけこんで攻めて来るであろうし、そうなれば一大事であると説くのに過ぎないであろう。
それに反し、仁義を本にして両国の王に説くならば、まず初めに、戦を起し、士臣の生命を危険に陥れ、諸侯から怨まれる原因を作り、更に領土を拡張したいという理由から国民を苦しめるという行為は不仁であることを述べそれによって王の仁心をふるい起たせ、更にどのようにわずかの土地であっても、不義の手段で奪ってはならぬことを説いて、王の義心をふるい起たせるであろう。
昔から、戦争について論ずる人物は、すべて利を得るということを主眼とし、仁義にかなっているかどうかということは、問題としない。そしてその弊害は、今日に至って極点に達したといってよい。
だが、事実は、仁義によって行うことほど利であるものはなく、また利によって行うことほど不利なものはないのである。このことは、近頃のロシアおよびアメリカの行動によって知ることができよう。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
=====================
利益、効率性、アウトソーシング、資本主義的な思考になりがちな現代の私達こそ、この章について深く考えるべきかもしれない。
本章は、利と仁義との区別を論じていること、梁恵王上篇首章と同じであって、これこそ孟子が生涯変わることなかった意見であった。
さて宋コウは秦・楚二国の王に、戦争は国家にとって不利のものだといってこれを止めさせるといっているが、それは、戦いに勝っても、その結果、兵気はにぶり、財力は無くなってしまい、〔『孫子』作戦篇等にいっているとおりである〕まして、戦争は勝つものとは決まっていないし、その上、秦・楚の両国が戦うのは、二匹の虎が打ち合うようなもので、戦いが長引くために兵禍は増大し、韓・魏・斉・趙の諸国がそれにつけこんで攻めて来るであろうし、そうなれば一大事であると説くのに過ぎないであろう。
それに反し、仁義を本にして両国の王に説くならば、まず初めに、戦を起し、士臣の生命を危険に陥れ、諸侯から怨まれる原因を作り、更に領土を拡張したいという理由から国民を苦しめるという行為は不仁であることを述べそれによって王の仁心をふるい起たせ、更にどのようにわずかの土地であっても、不義の手段で奪ってはならぬことを説いて、王の義心をふるい起たせるであろう。
昔から、戦争について論ずる人物は、すべて利を得るということを主眼とし、仁義にかなっているかどうかということは、問題としない。そしてその弊害は、今日に至って極点に達したといってよい。
だが、事実は、仁義によって行うことほど利であるものはなく、また利によって行うことほど不利なものはないのである。このことは、近頃のロシアおよびアメリカの行動によって知ることができよう。■
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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利益、効率性、アウトソーシング、資本主義的な思考になりがちな現代の私達こそ、この章について深く考えるべきかもしれない。
2012年9月21日金曜日
講孟箚記-尽心下篇-第四章 〜 強恕ー思いやり
講孟箚記-尽心下篇-第四章■
本章は、前章の「我に在るものを求む」を受けて語ったものである。
「強恕して行ふ」云々、大いに努力して、恕、すなわち思いやりを他人に推し及ぼしてゆくことこそ、仁を求めるにもっとも近い方法である、という言葉は、まことに親切の教えである。
骨の折れることを努力してすることと、人の気持ちを思いやりながら行うことから、学問は始まるものであって、これが孟子のいう「強恕」の道なのである。
これ以下三章は、すべて「これより近きはなし」の意を推し広げて、身近の問題を取り上げ、それによって至上の道理を説いたものである。
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
==============
「骨の折れることを努力してすることと、人の気持ちを思いやりながら行うことから、学問は始まるものであって」云々、この一節は何かを学ぶ時には肝に銘じておきたい言葉ではないでしょうか。
本章は、前章の「我に在るものを求む」を受けて語ったものである。
「強恕して行ふ」云々、大いに努力して、恕、すなわち思いやりを他人に推し及ぼしてゆくことこそ、仁を求めるにもっとも近い方法である、という言葉は、まことに親切の教えである。
骨の折れることを努力してすることと、人の気持ちを思いやりながら行うことから、学問は始まるものであって、これが孟子のいう「強恕」の道なのである。
これ以下三章は、すべて「これより近きはなし」の意を推し広げて、身近の問題を取り上げ、それによって至上の道理を説いたものである。
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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「骨の折れることを努力してすることと、人の気持ちを思いやりながら行うことから、学問は始まるものであって」云々、この一節は何かを学ぶ時には肝に銘じておきたい言葉ではないでしょうか。
講孟箚記-尽心下篇-第六章、七章 〜 恥と武士道について
講孟箚記-尽心下篇-第六章、七章■
この二章は、「恥」の問題について論じ尽くしているので、これ以上、何も付け加えるものはない。
ただ、君子の恥じるところと小人の恥じるところとを比較してみると、君子は自分に道義がないことを恥じ、小人は名誉がないことを恥じる。
君子は才能がないことを恥じ、小人は官位・俸禄のないことを恥じる。この類を推し広げて、両者の違いを知るがよい。だいたい、小人が恥ずかしく思うところは外見の問題であり、君子が恥ずかしく思うところは内実の問題である。
それはさて置いて、「恥」という一字は、わが国の武士が常に口にするところであって、恥を知らぬくらい恥ずかしいことはない。しかるに武士が恥を知らぬこと、今日に至って極まったという外ない。
されば武士の道を興そうとするならば、まず恥を知る気風を興すことからすべきである。
今日、何が自分にとって第一の恥であるか、第二の恥であるか、第三、第四の恥であるかと、順序に条目を立てて努力するならば、真の恥を知る武士になれるであろう。
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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別章にて恥と罪どちらが重いものかについて言及している。併せて読むことをお薦めいたします。(どの章だったかは、後ほど紹介いたします)
この二章は、「恥」の問題について論じ尽くしているので、これ以上、何も付け加えるものはない。
ただ、君子の恥じるところと小人の恥じるところとを比較してみると、君子は自分に道義がないことを恥じ、小人は名誉がないことを恥じる。
君子は才能がないことを恥じ、小人は官位・俸禄のないことを恥じる。この類を推し広げて、両者の違いを知るがよい。だいたい、小人が恥ずかしく思うところは外見の問題であり、君子が恥ずかしく思うところは内実の問題である。
それはさて置いて、「恥」という一字は、わが国の武士が常に口にするところであって、恥を知らぬくらい恥ずかしいことはない。しかるに武士が恥を知らぬこと、今日に至って極まったという外ない。
されば武士の道を興そうとするならば、まず恥を知る気風を興すことからすべきである。
今日、何が自分にとって第一の恥であるか、第二の恥であるか、第三、第四の恥であるかと、順序に条目を立てて努力するならば、真の恥を知る武士になれるであろう。
〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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別章にて恥と罪どちらが重いものかについて言及している。併せて読むことをお薦めいたします。(どの章だったかは、後ほど紹介いたします)
2012年9月20日木曜日
講孟箚記-尽心下篇-第二章 〜 天命とは
講孟箚記-尽心下篇-第二章■
本章は、前章の「命を立つ」、天から与えられた生命を全うするという意見をうけて、「正命」と「非正命」との別についての意見を述べているもので、「命」について論ずること、極めて詳細であるといってよい。命というのは天命のことである。
世間一般の人々の考えでは、天命というと、天に心があって、人の行いの善いか悪いかによって吉凶禍福をそれぞれに与えることのように思っているが、これは大きな誤りである。
この章で命といっているものは、万章上篇第六章に「これを致すことなくして至るものは命なり」、人の力で招こうとしないでも、向こうからやってくるものが命である、といっている命であって、すべて人の力ではどうすることもできぬことを、命といったのである。吉凶禍福の類は、みな自分の思い通りにならぬことであるから、これを命というのである。
さて「命に非ざることなきなり」、吉凶禍福、全て命であるといううちに、正命と非正命との区別がある。これについては、前章の『箚記』の中で述べておいた「疾病の譬(タトヘ)」を基準とし、その外のことはそれより類推してこれを知ることができる。
すなわち、家族が頑固な父、やかましい母、思い上がった弟や愚かな子であったり、洪水にあったり、飢え苦しんだりすることは、みな命であるが、これを命であるといって何もせずにいることは、非正命―正命ではないのである。
それは、為すべきことを放棄してその道を尽くさずにいるからである。聖人が心力を尽して天下のために勤めたのに関わらず、その子が丹朱や商均のような、いかんともし難い不肖であったことは、正命とも言えるであろう。
しかし、桎梏、すなわち手枷・足枷されて罪人として死ぬのは、自分から招いた禍いであるから、正命ではないのである。
それは、盗みや賭事のような悪事さえしなかったならば、罪人になるはずは全くないからである。
しかしながら、殷の湯王が夏台に囚われ、周の文王がユウ里に囚われたり、龍逢や比干のような忠臣でありながら、死罪になることを免れなかったのは、これが正命であるか非正命であるか、よくよく考えねばならない。
『朱子語類』にこの問題を取り上げて、
「孟子は、桎梏して死んだ者は正命でないと説いているが、これについて、孟子の真意はどうであるのかということを看ることが必要である。
一つ公冶長を例に取り上げてみると、彼は縲紲(ルイセツ)に在る―縄をかけられて獄に入っていたといっても、彼の罪のためではなかったのである。さればもし当時、許されぬまま獄死したとしても、彼の死は正命でないとはいわれないであろう。
罪があるとか罪がないとかは、結局、自身の問題である。
それ故に古人も、身を殺して仁を成す― 一命をすてても仁の徳を成しとげようとしたのである。」と論じている。
この意見によって、わたくしはこの事を次のように考える。
道義を実践してそのために禍罪にかかるということは、為すべき道を尽した極である。およそ人というものは、道義の外に行くべきところがないのであるから、道義を実践して禍罪にかかるのは、自分の意にまかせぬことであって、これを「これを致すことなくして至るもの」、招かぬのに先方からやって来るものといってよろしい。
そしてこの問題について、われわれは詳細に考えねばならない。
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豊かな、時に脅威となる自然と共に生きてきた日本人には、「なるようにしかならない」という気持ちがあるのを時折感じる。
しかし、人智ではどうにもならない天命と対峙したからといって、為すべきことをせずに放棄することは非正命であるとこの章では諌めている。
本篇の首章に「人事を尽くして天命を待つ」について書かれているが、なされるがままではなく与えられた天命に対して自分の道を尽くすことの重要性を説いている。
終盤の「為すべき道を尽くした極である。」とあるが、東北周遊での友に義を尽くすための脱藩、下田での密航計画など、松陰先生は「道を尽くす極」を自ら実践している。
本章は、前章の「命を立つ」、天から与えられた生命を全うするという意見をうけて、「正命」と「非正命」との別についての意見を述べているもので、「命」について論ずること、極めて詳細であるといってよい。命というのは天命のことである。
世間一般の人々の考えでは、天命というと、天に心があって、人の行いの善いか悪いかによって吉凶禍福をそれぞれに与えることのように思っているが、これは大きな誤りである。
この章で命といっているものは、万章上篇第六章に「これを致すことなくして至るものは命なり」、人の力で招こうとしないでも、向こうからやってくるものが命である、といっている命であって、すべて人の力ではどうすることもできぬことを、命といったのである。吉凶禍福の類は、みな自分の思い通りにならぬことであるから、これを命というのである。
さて「命に非ざることなきなり」、吉凶禍福、全て命であるといううちに、正命と非正命との区別がある。これについては、前章の『箚記』の中で述べておいた「疾病の譬(タトヘ)」を基準とし、その外のことはそれより類推してこれを知ることができる。
すなわち、家族が頑固な父、やかましい母、思い上がった弟や愚かな子であったり、洪水にあったり、飢え苦しんだりすることは、みな命であるが、これを命であるといって何もせずにいることは、非正命―正命ではないのである。
それは、為すべきことを放棄してその道を尽くさずにいるからである。聖人が心力を尽して天下のために勤めたのに関わらず、その子が丹朱や商均のような、いかんともし難い不肖であったことは、正命とも言えるであろう。
しかし、桎梏、すなわち手枷・足枷されて罪人として死ぬのは、自分から招いた禍いであるから、正命ではないのである。
それは、盗みや賭事のような悪事さえしなかったならば、罪人になるはずは全くないからである。
しかしながら、殷の湯王が夏台に囚われ、周の文王がユウ里に囚われたり、龍逢や比干のような忠臣でありながら、死罪になることを免れなかったのは、これが正命であるか非正命であるか、よくよく考えねばならない。
『朱子語類』にこの問題を取り上げて、
「孟子は、桎梏して死んだ者は正命でないと説いているが、これについて、孟子の真意はどうであるのかということを看ることが必要である。
一つ公冶長を例に取り上げてみると、彼は縲紲(ルイセツ)に在る―縄をかけられて獄に入っていたといっても、彼の罪のためではなかったのである。さればもし当時、許されぬまま獄死したとしても、彼の死は正命でないとはいわれないであろう。
罪があるとか罪がないとかは、結局、自身の問題である。
それ故に古人も、身を殺して仁を成す― 一命をすてても仁の徳を成しとげようとしたのである。」と論じている。
この意見によって、わたくしはこの事を次のように考える。
道義を実践してそのために禍罪にかかるということは、為すべき道を尽した極である。およそ人というものは、道義の外に行くべきところがないのであるから、道義を実践して禍罪にかかるのは、自分の意にまかせぬことであって、これを「これを致すことなくして至るもの」、招かぬのに先方からやって来るものといってよろしい。
そしてこの問題について、われわれは詳細に考えねばならない。
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豊かな、時に脅威となる自然と共に生きてきた日本人には、「なるようにしかならない」という気持ちがあるのを時折感じる。
しかし、人智ではどうにもならない天命と対峙したからといって、為すべきことをせずに放棄することは非正命であるとこの章では諌めている。
本篇の首章に「人事を尽くして天命を待つ」について書かれているが、なされるがままではなく与えられた天命に対して自分の道を尽くすことの重要性を説いている。
終盤の「為すべき道を尽くした極である。」とあるが、東北周遊での友に義を尽くすための脱藩、下田での密航計画など、松陰先生は「道を尽くす極」を自ら実践している。
2012年9月12日水曜日
講孟箚記-離婁下篇-第十三章 〜 本当の孝と忠について
講孟箚記-離婁下篇-第十三章
この章の意味は、朱子の註によって已に明らかになっている。しかしわたくしは、今別の一説を提起して参考にしたいと思う。
「生を養ふ」、親の生存中に孝養を尽くすということは、父母の目の前における行為であるから、非常な狂妄人でない以上は、ある程度までは親に恭しい態度をするものであるから、この態度を見て簡単にその人を信じて孝子と思い、親に孝だから兄に悌の念もあるであろう、君に忠の心もあるであろうなどと思って、大事の際にこの人を用いようとすると、これは大きな誤りであろう。
「死を送る」、親の葬儀を行う際に及んでも、なお親の生存中同様、必ず誠に必ず信、誠実を尽くすことができる人物こそ本当の孝子であって、このような人こそ、大事に当てるに足るものであり。
大事に当てるとは、重大な事が生じた際、それを担当するに堪える人物であるということである。すなわち『論語』にいう「大節に臨みて奪ふべからず」のごとき精神力があることをいうのである。〔当つという字の意味は、朱子の註と少しことなっている。〕
以上の道理は、父母の生死の際のことだけのことでなく、あらゆる問題の上で同一である。
国が強く勢いが盛んである時には、誰も忠勤を励むものであるが、国が衰え勢いが去ってしまうと志を変えて敵に降参し、主君を売る類の人間が少なくない。
それ故に人は、晩節を全うするのでなければ、どれほど才智学藝があっても、尊ぶ価値がないのである。
英明な君主のもとで忠義を尽くす家臣は珍しくない。
暗愚な君主に仕えて忠義を尽くす人物こそ、真の忠臣である。
慈愛深い父のもとで孝行をする子供は珍しくない。
頑迷な父に仕えて孝行を尽くす人物こそ、真の孝子である。
賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。
責罰されてもなお忠孝を尽くす人物こそ、真の忠臣孝子である。
武士たる者が覚悟すべきこと、実にこの一点にある。
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「仁」の親に対するものが「孝」、君に対するものが「忠」であり、両者あわせて挙げて本当の忠孝とは、ということを説いている。
その人の真の「忠孝」を見極めなければ、大事に際して、任せるべきではなかった、、、という結果になることを忠告しているともとれる。
話しは少しずれますが、体調不良で過去に辞任してしまった元首相の再出馬は、誰もが「大事は任せられない、」という気持ちだと思うのだが、どうだろうか。
2012年9月10日月曜日
講孟箚記-尽心上篇-第三十五章 〜 孝行とは
講孟箚記-尽心上篇-第三十五章
前章に已に、斉ほどの大国でも、人倫に比べるならば極めて価値は軽く、わずかの食物と違うところがない、といっており、本章には、ただに斉国のみでなく、天下といえども、父子の道の重いことに比較すれば、やぶれ草履に等しいことを述べている。
本章の主意と、万章上篇首章の記述とを合わせて考えて、それによって大舜の心事を考察し、孝行の道を把握するがよい。
だいたい、孝道というものは、眼中、ただ父母を思う一念のみがあるのみである。
父母がなかったならば、一日も我が身は存在しないのであるから、それを思えば、父母のためにはわが生命も問題にならぬ。
まして天子の地位いかに貴くとも、天下の富いかに多くとも、父母に比較すればやぶれ草履に等しいもので、何で問題にするに足りようか。
以上の主意については、朱子の註に、説くこと至れり尽くせりである。
新井白石の『読史餘論』に本章が次のように引用されている。
「『保元物語』を見ると、源義朝に父の爲義を切らさせられたことは、過去に未だに聞いたことのない不祥事であり、これは、それを命ぜられた朝廷のお誤りであるとともに、子たる義朝自身の誤りである。『孟子』に、舜が天子の地位にあり、皐陶が裁判官の地位にあるとき、父の瞽目-叟(コソウ)が殺人を犯し、皐陶がこれを、執えたとすれば、舜はどうしたでありましょうかという桃應の問いに対し、孟子が、舜はその地位を棄て、父を背負って辺土に去るであろうと答えたことを載せているが、義朝においても、父を助けようと思ったならは、その方法はあったはずである。自分に賜る恩賞に代えたとしても、よしわが身を投げ出したとしても、父を救おうと思うならば、救われたのである」
とある。
この意見に、わたくしはまず同感する。
このように心を使って、なお救うことができなかったならば、父とともに生命を失ったとしても、少しも心残りはないのである。
舜の心も同様であった。殺人罪をおかしたものを、人に知られぬように背負って逃げたとしても、天下の威勢をもってこれを捜索したならば、やがて露顕してしまったかも知れず、一生涯、父とともに欣然として居るということは、困難であったろう。
しかしながら、捕らえられて直ちに父子もろとも殺されたとしても、一生欣然としていたという事実を、少しも傷つけぬのである。楚の令尹であった子南の子の棄疾や、唐の李懐光の子の李摧の行為は、以上の道において全く欠点がないものである。
これについては、縢文公上篇末章の「一本」、本を一にするの説、及び本篇第二十六章の「権」の説にどと合わせて研究するとよい。
なお本章においてはもっぱら父子の間の道について説いているが、この舜の子としての心を推しつめてゆくならば、君臣間の道においても同じことなのである。『孝経』に、「孝の心を以て君に仕えるならばそれが忠である」とあるのは、このことをいったものである。
(講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾著より)
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この章で説かれている「孝」については、他の章でも度々出てくるので合わせて熟考したい。
儒家思想の「孝」は現代の親孝行の本の考え方だと思うが、ニュアンスは少し違う気がします。この章はそれを考えるのに良い例だと思う。
私の地元米沢の上杉鷹山公は大倹約令を発しながら、養父の重定には甘く、藩が窮乏しているにも関わらず贅沢な生活を許した。
この点について疑問視したり、甘やかすべきではなかった、と述べている著書があるが、それらの意見に関して言えば、私はこの章でも書かれている儒家思想の「孝」についての考えが不足しているように思う。
もともと徳の厚い上杉鷹山公であったのだから、当時一番の貧乏藩とはいえ、養父に藩主として迎えられたことに対する恩は計り知れないものがあるだろう。
その心中はこの箚記を読んで「孝」について考えれば、想像できるように思う。
講孟箚記-公孫丑上編-第八章 〜他の力を借りる
講孟箚記-公孫丑上編-第八章
舜は大聖人である。
彼がまだ身分が低くて、農夫・陶工・漁夫と一緒に生活している時、必ず「人に取りて以て善を為す」、他人に善いところがあれば、それを取り入れてすぐ実行したわけは、天下というものが至って大きく至って奥深いものであって、まことに一人の知恵や能力ではこれを窮めることができぬことを知っていたからである。
更に舜が「人と善を為す」、人々と一緒に善を行ったということになると、これは、仁の至上なるものであって、我ら至らぬものどもは、とうてい、聖人の大徳に及ぶべきものではないが、既に志を立てて聖人を学ばんと決心した以上、大舜であるからといって、その大徳に畏れることはないのである。
それ故に、自己の小さな知恵や能力を挟まず、広い心を持って他人の知恵や能力を採用し、その上に人の善心を勧め助けて、いっしょに道に向かって進むべきである。
更に言えば、世の中には、人を誘って道に進もうとする人物は極めて少なく、ひどい人間になると、互いの知恵と知恵、能力と能力とをぶつけて抗争しあうまでになる。
この上なく哀しい話である。
われわれは、深くこの点に留意しなければならない。
(講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾著より)
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一人の能力は限られている。
全て自分でやろうとするのには限界があり、他人の能力を認めて助けてもらわなければ大道はなし得ない。
塾生ひとりひとりの特徴を見抜いていたといわれる松陰先生らしい言葉。
この講孟箚記を説かれた野山の獄では、松陰先生が孟子の講義をするだけでなく、松陰先生の提案により他の囚人にそれぞれの得意分野の先生となってもらい(歌や詩など)、互いに学問を磨いたといわれる。
誰に対しても分け隔てなく教え、誰に対しても教わる姿勢を持つ松陰先生だからこその重みがあるように思う。
大きな事態に直面すると、前しか見えなくなりがちだが、自分のすぐ近くにも今その時を乗り切るのにふさわしい能力を持った人がいるかもしれない。
心に留めておきたい一節です。
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