2012年10月5日金曜日

講孟箚記-公孫丑上篇-第四章 〜幸も不幸も自分次第

講孟箚記-公孫丑上篇-第四章■

「禍福は己より之を求めざる者なし」

 この章は、二つの「是の時に及んで」という語が使われている。朱子の註は、このどちらに対しても「ただ日も足らず」、いくら努力しても、なお時間が足りないの意味であるといっている。この註は最も道理が深く味わうべきである。

 今や、東よりアメリカ、西よりヨーロッパの諸国が、わが国にせまって来ているが、当局は、本意を枉(マ)げて彼の意に従うのみである。地図を開いてこの情勢を検討してみると、蝦夷のクシュンコタンは既にロシア人が城塁を築いており、松前の箱館と伊豆の下田は、すでにアメリカ人の貿易場となり、肥前の長崎には、イギリスやフランスの来航が頻繁である。
その外、武蔵の神奈川、志摩の鳥羽、摂津の難波などは、外国人がすでに去ったものの、彼らの臭気、まだ消えていない。
以上から見て、わが国のうち、彼らの汚れを受けていない土地は、どれ程であるか。上に在るものは政治教育を修め、士太夫たるものはその学問武芸を練り、農・工・商の人々はそれぞれ自分の仕事に勤め、かくして上下力を合せて、災事を未然に防ぐべく努力し、当局者たるもの、民衆の侮りを受けぬようにするべきである。
しかるに現在の国情はこれに反し、この機に乗じて、ただ日も足らぬというありさまで、日夜遊びほうけているのは、何事であるか。古今を通じ、慨嘆を同じゅうするものである。

 「禍福は己より之を求めざる者なし」、禍も福も、いずれも自分の心掛けが招くのである、というこのことばは、甚だ道理が深い。禍の字も福の字も、いずれも示編(しめすへん)に基づく文字である。およそ示編の字は、神・祇・祥・禎の類でわかるように、みな神に関係がある文字である。
それ故に、禍福というのは、世間でいう、天罰があたるとか、神罰を蒙る、または神の恵みを受ける、天の福を承ける、という類いのことである。古今ともに、道理にくらい人間の人情は同じことで、とかく天や神が人間に禍や福を降すように思っているので、孟子は特に、「禍福は天から降るのではない、神より出るのではない、全て自分の方から求めるのである」といったのである。この道理が理解できて、初めて共に道の世界に入ることができるのである。
この道理を理解していない人間は、天や神にばかり諛(ヘツラ)って、自分の行動は修めようとしないのである。この態度を、「福を辞して禍を求める」、自分から幸福と離別して禍いを求めるというのである。
つまらぬ人間の行為は、全てこのようである。気の毒なことだ。

〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕

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皇国の皇国たる所以を説く松陰先生は、日本における本来の神の道についても至る所で言及しており(妹宛の手紙などにも書かれている)はっとさせられるものがある。

神と向き合うということは自分と向き合うということ。 神様は何かをお願いする対象になってしまっているが、古来より身の回りに神々を見いだし生活してきた日本人としては、本来の神の道についても改めて考えたい。

この章については『家之本在身』も是非併せてお読み下さい。


2012年9月29日土曜日

講孟箚記-尽心下篇-第九章 〜徳とは

講孟箚記-尽心下篇-第九章■

「徳を尊び義を楽しめば、自然に無欲になり平然としておることができる。それ故に士たるものは、どんなに困窮しても義を失うことがなく、どんなに栄達しても道を離れることができない。困窮しても義を失わず、栄達しても道を離れないから、民衆の期待に負くことがない。昔の賢人は、志を得て要路に就いたならば、民衆に広く恩沢を施し、志を得ることができずに民間にあったならば、修養して有徳の人としての名声が世に現れたものである。されば、困窮の身であったならばひとり我が身を修め、栄達したならば、天下の人々を等しく善に導かねばならないのである」
本章は、大いに同感であるので、繁を厭わず、その全文を挙げておいた。いくたびも読み返して欲しいと思う。

さて、「囂々(ゴウゴウ)」、無欲で心が平らか、という二字が、全体の主意であり、「尊徳楽義」、徳を尊び義を楽しむ、という四字が、そうなるための工夫を述べたのものである。

「尊徳」という語には二つの意味があり、その一は公孫丑下篇第二章に「その徳を尊び」云々、このように徳を尊び道を楽しむのでなければ、いっしょに仕事をすることはできません、という尊徳で、これは徳のある人を尊崇するという意味であり、本章もその意味で通るのである。
今一つは『中庸』に「徳性を学ぶ」と見えるもので、これは自分のうちにある徳性、すなわち人格を大切にし失わぬようにするという意味である。しかし、徳といえば、自分のものでも人のものでも結局は同じであって、自分にあるものを大切にするから人にあるものを大切にするのであり、本来、自他一貫の問題である。つまりは、本章の徳という文字は、自分の徳とも人の徳ともいっておらず、ただ徳とのみあるのであり、「楽義」、義を楽しむの義についても同じことである。
このようにして天下の人々の徳義を大切にして、自他の区別をしないからこそ、囂々然として、平然として無欲になることができるのである。およそ士たる者は、どんなに困窮しても、どこまでも士たるの覚悟を失うことなく、また、立身出世したとしても、富貴に溺れて平生の志を亡くしてしまうこともなく、よい政治を行い、民衆に恩沢を施して、彼らの期待にそうべきものである。

 しかるにわたくしが、今の世の中を見通すのに、栄達しても道から離れぬものは少なく、貧賤であった時や、少壮であった日に、書物を放さず経書を研究していた時の議論と、要路に登って政治を執るようになってからの実際行動との間に、多くは違いがあるものである。
しかしこれには、やむを得ぬ事情もあることであろうから、これについては、わたくしは議論しようと思わない。
ただし、どんなに困窮しても義を失わぬということになると、これはわが身の上に切実の問題であるから、努力しなければならない。
わたくしは、甲寅(安政元年)渡海に敗れて獄に入ってからこのかた、身の自由は奪われ、三百里の遠路を檻輿で走り、六百日を牢に暮した。今日は、その禁錮はやや緩くなったとはいえ、足は門より出ることなく、近親以外の人とは、会うことを遠慮している。されば、これは困窮の身といってよいであろう。
しかしながら、わが志に至っては、この松本村はよし小さくとも、ここより一二の俊傑を生み出し、その人によって忠孝を首唱して、天下の先駆となりたいと願っている。
しかしながらわたくしが、義を失わないか、それとも義を失うことが多いかについては自信を持つことができないので、『孟子』をとって研究し、わが行動の道義に適っているか否かを尋ねようと思っている。

なお「独善」、独り善くす、ということの意味については、滕文公下篇第四章に「入りては則ち」云々、家にあっては親に孝、外にあっては長上によく仕え、古聖王の樹てた道を守ってその実現を後の学徒に期待する、といっており、本篇の第三十二章に「其の子弟これに従へば」云々、その国の若者が、この人物について学べば、孝悌忠信の人物になることができる、といっているのを、合わせ考えるとよい。
思うに「独善」というものは、頑固にひとり交際せずに暮していることをいうのではない。
「兼ねて天下を善くす」という語に対して、特にその人の恩沢の及ぶ範囲が小さいということを述べたものに外ならぬのでる。もしそうでなければ、「若者がこの人物について学ぶ」とか「後の学徒に期待する」とかいうことは、「独善」ではなくなってしまうのである。

 わたくしが野山の獄にあった時、同囚の富永有隣のために、その名字の説を作った。その文のうちに、「独善の志があって始めて兼善、全ての人々を善くする、という仕事が生まれる」とか、「偉大なる舜帝は、みずから耕作したり陶器を作ったり、魚釣をしたりしたが、それに関わらずその徳、人々に仰がれて都君と呼ばれ、孔子は、魯・衛・陳・蔡の諸国に遊説して苦しんだが、その道を慕う三千人もの門人があった」と記した。有隣は強情の人物で、自説を決して屈しようとしないが、深くこの説を至言とした。思うに、わたくしと彼との平生の志が、ここにあるからであろう。されば今から数年後には、必ず微効があらわれるものと信じている。

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2012年9月24日月曜日

講孟箚記-離婁下篇-第二十六章 〜 学問は実践であれ

講孟箚記-離婁下篇-第二十六章■

「天下の性を言ふや、則ち故(アト)のみ」
 
 人間の本性は、宇宙の理が人間のうちに内在しているものであり、同時に心として人間の主体をなしているものである。しかしながら、性といっても理といっても心といっても、見聞することのできる形色声臭とて無き無形のものであるが、ただそれが過去にどうであったかという跡をたどって見るならば自然にこれを明白にすることができる。この過去にどうであったかという跡を「故」というのである。

 凡そ空理空論ばかりをもてあそんで、実際の問題についての究明実践をゆるがせにするのは、学者共通の欠陥である。しかしこれは、観念論者が口にするところであって、篤学実行の人物にとっては、聞くことを欲せぬことである。
それ故に孟子は、人の本性の善なることを説く時には、観念に流れぬように、堯・舜を例として、具体的にこれを語っているのである。
また孟子のことばのうちにある「牽牛」の譬、すなわち斉の宣王は、殺してその血を鐘に塗らるべく彼の前を牽かれてゆく牛の哀れな姿を見て、同情にたえなかったという話や、「赤子入井(セキシニュウセイ)」、幼児が誤って井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でもみなハッと驚くという話など、みな、行為の跡が明らかに見られるものを挙げて人に示したものであり、決して空理空論は説いていないのである。ここが、学者の最も考えるべきところである。

しかるに実際はこれと反対に本性・理・心を分析してこれを詳細に論じていながら、忠孝節義、すなわち我々の道義実践の上において、全く関係のない議論が、しばしばあるのである。

例えば読書の方法についてこれを見よう。
世の中には、経書を読むことを好んで史書を読まぬものがあるが、これは大いに誤っている。
わたくしは常に史書を読んで、古人の実践の跡を見て、わが志を励ますことを好んでいる。これもまた「故のみ」、過去の足跡に外ならぬ、というものである。

孔子のおことばに、「われこれを空言に載せんと欲するは、これを行事に載するの親切著明なるに如かず」、抽象論として説明するよりも、具体的事実の上で説明する方が、遥かに親切明白である、とあるのは、思うにこの意味である。


〈参考〉
経史を一体とする松陰の学問の本領が、ここに明瞭に語られている。空理を弄して抽象論・観念論に流れることを排し、あくまで実際に基づいて具体的に究明体察しようとするところに、東洋の学問の特質が存在する。
『箚記』に引かれている孔子の言葉は、これをよく示していて、後世の学者の大きな指針となり指標となっており、例えば浅見絅斎藤が自ら著した『靖献遺言』を講義して、

蓋し空言を以て義理を説くは、実に其の事歴を挙げて閲(ケミ)するの、尤も親切にして
感発興起餘りあるにしかず。

といっているのも、これによったものである。
なお絅斎の高弟、若林強斎の『梅津某の問目に答ふ』と題する文のうちには

凡そ学者、空理を汎論することを好みて、而して聖賢の書に就いてこれを講究することを要めず、これ、通病(ツウヘイ)なり。

とあり、学者の抽象論・観念論が、古来の通弊であることを語っている。
松陰が人倫を説き、遺俗・流風を説き、そして急激なる改革を悦ばず、理念の産物というべき革命を拒否したのも、先人の努力の足跡を凝視するが故である。


〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕


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実学を重んじる松陰先生らしい言葉。
参考の末文にあるように、松陰先生は先人から受け継いできたものを大切にするように説いている。幕末の革命の先駆者と称されるが、松陰先生の真髄はそれまで築いてきたものを壊せというものではなく、しっかり見つめ直して本来のあるべき日本を、大和魂を取り戻そうというもの。
ここを間違えてはいけません。

先祖代々より受けた恩を子々孫々まで継承する。
今の私達はご先祖さまあってのもの。
そしてそれを将来へ受け継いでいかなければいけない。
これはわが米沢の名君、上杉鷹山公も伝国の辞にて述べていることです。
現在の日本において、目先のことしか考えずに発言・行動している私達が真剣に考えなければいけない根本的な問題です。

講孟箚記-離婁下篇-第二十七章 〜 礼について

講孟箚記-離婁下篇-第二十七章■

 「礼」というものは、一定の規矩、中正の標準であって、人の行動をこれに照らして過不及なからしめるものである。しかるに世俗の人々の態度を見ると、恭しさの度を過し諂(ヘツラ)いになったものもあれば、傲、人におごるの度を過ぎて慢、人を侮るにまで陥っている者もある。これらはみな礼にはずれている。
もし本当に礼を実行しようと思うならば、孔子・孟子の行為によって知るのがよい。
孔子が主君のお招きを受けた時、堂の下で礼拝したのは、当時一般の堂上で礼拝したという慢に失した風潮を抑えて、礼に復帰しようとしたものである。
孟子が本章に見えるように、弔問に赴いた際、右師王驩と、彼ひとり口を開かなかったのは、人々が争って権力者にとり入ろうとする、諂いの態度を矯め直して礼に復帰させようとしたものである。
されば孔子も孟子も、その精神は等しいものであった。
現今、礼も習俗も、いずれも孔子・孟子の時代とは異なっているが、細かく考察すると、諂ったり慢(アナド)ったりして、礼を失っている人間は、無しとしないのである。
さればこの問題を深く考えてみることが大切である。
さらにまた、第十章「仲尼は巳甚だしきことを為さざる者」の意と互いに照らし合わせて、本旨を明白にすべきである。■


〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕


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講孟箚記-尽心上篇-第十五章 〜 王陽明の悟り

講孟箚記-尽心上篇-第十五章■

 本章は、その内容切実、文章簡易、まことに素晴らしい。
幼児が親を愛する心は、心の本質がそのまま現れたもの、すなわち仁であって、上に在るものが、この心で天下の親を見るならば、天下の人々もそれぞれ自分の親を見ること、童子がその親を愛するがごとくであり、同時に天下の親も、それぞれ自分の子を見ること、幼児を見るごとくにするであろう。
ここにおいて世の中に不孝の子も、不慈の親もなくなるのである。
そしてこの問題は、兄弟間においても同じ道理である。

古今、この章を読んだものの数は限りないのであるが、ただ※王陽明だけが、本章によって大いに悟り、ついに独自の学問を樹立し、後世全ての人々が彼に及ばぬのである。

以上の事実によって、書物は精思熟考するのでなければ、決してその源に逢いその流れを達する、道の根源を会得し、それを天下後世にゆきわたらせることはできぬのである。

また考えるに、「他なし、これを天下に達するなり」、重要なることは、親を愛し兄を敬う心を天下に推し及ぼすという一事である、という結論こそ、運用と工夫に関する沢山の内容を包含しているのである。これは離婁上篇第十一章の「人々、その親を親とし、その長を長として、天下平かなり」と同種のことばである。■

〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕

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※注釈より
王陽明是に因りて・・・『王文成公年譜』(文成は陽明の諡)に、正徳十六年、五十歳、正月、南晶に居る、この歳、始めて到良知(良知を致す)の教えを掲げ、「我、この良知の二字、実に千古聖々相伝の一点一滴の骨血なり」といったと見える。
すなわち陽明は、道徳的判断力を以て人の先天固有のものとし、孟子の良知語(本章に
「人の学ばずして能くするものは、其の良能なり、慮らずして知るものは、其の良知なり」
とある)を、その依拠としたのである。



2012年9月22日土曜日

講孟箚記-告子下篇-第四章 〜 利と仁義について

講孟箚記-告子下篇-第四章■

 本章は、利と仁義との区別を論じていること、梁恵王上篇首章と同じであって、これこそ孟子が生涯変わることなかった意見であった。
さて宋コウは秦・楚二国の王に、戦争は国家にとって不利のものだといってこれを止めさせるといっているが、それは、戦いに勝っても、その結果、兵気はにぶり、財力は無くなってしまい、〔『孫子』作戦篇等にいっているとおりである〕まして、戦争は勝つものとは決まっていないし、その上、秦・楚の両国が戦うのは、二匹の虎が打ち合うようなもので、戦いが長引くために兵禍は増大し、韓・魏・斉・趙の諸国がそれにつけこんで攻めて来るであろうし、そうなれば一大事であると説くのに過ぎないであろう。

 それに反し、仁義を本にして両国の王に説くならば、まず初めに、戦を起し、士臣の生命を危険に陥れ、諸侯から怨まれる原因を作り、更に領土を拡張したいという理由から国民を苦しめるという行為は不仁であることを述べそれによって王の仁心をふるい起たせ、更にどのようにわずかの土地であっても、不義の手段で奪ってはならぬことを説いて、王の義心をふるい起たせるであろう。

 昔から、戦争について論ずる人物は、すべて利を得るということを主眼とし、仁義にかなっているかどうかということは、問題としない。そしてその弊害は、今日に至って極点に達したといってよい。
だが、事実は、仁義によって行うことほど利であるものはなく、また利によって行うことほど不利なものはないのである。このことは、近頃のロシアおよびアメリカの行動によって知ることができよう。■

〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕

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利益、効率性、アウトソーシング、資本主義的な思考になりがちな現代の私達こそ、この章について深く考えるべきかもしれない。

2012年9月21日金曜日

講孟箚記-尽心下篇-第四章 〜 強恕ー思いやり

講孟箚記-尽心下篇-第四章■

 本章は、前章の「我に在るものを求む」を受けて語ったものである。
「強恕して行ふ」云々、大いに努力して、恕、すなわち思いやりを他人に推し及ぼしてゆくことこそ、仁を求めるにもっとも近い方法である、という言葉は、まことに親切の教えである。
骨の折れることを努力してすることと、人の気持ちを思いやりながら行うことから、学問は始まるものであって、これが孟子のいう「強恕」の道なのである。
これ以下三章は、すべて「これより近きはなし」の意を推し広げて、身近の問題を取り上げ、それによって至上の道理を説いたものである。

〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕

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「骨の折れることを努力してすることと、人の気持ちを思いやりながら行うことから、学問は始まるものであって」云々、この一節は何かを学ぶ時には肝に銘じておきたい言葉ではないでしょうか。

講孟箚記-尽心下篇-第六章、七章 〜 恥と武士道について

講孟箚記-尽心下篇-第六章、七章■

この二章は、「恥」の問題について論じ尽くしているので、これ以上、何も付け加えるものはない。
ただ、君子の恥じるところと小人の恥じるところとを比較してみると、君子は自分に道義がないことを恥じ、小人は名誉がないことを恥じる。
君子は才能がないことを恥じ、小人は官位・俸禄のないことを恥じる。この類を推し広げて、両者の違いを知るがよい。だいたい、小人が恥ずかしく思うところは外見の問題であり、君子が恥ずかしく思うところは内実の問題である。

それはさて置いて、「恥」という一字は、わが国の武士が常に口にするところであって、恥を知らぬくらい恥ずかしいことはない。しかるに武士が恥を知らぬこと、今日に至って極まったという外ない。
されば武士の道を興そうとするならば、まず恥を知る気風を興すことからすべきである。

今日、何が自分にとって第一の恥であるか、第二の恥であるか、第三、第四の恥であるかと、順序に条目を立てて努力するならば、真の恥を知る武士になれるであろう。

〔講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾氏著より〕
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別章にて恥と罪どちらが重いものかについて言及している。併せて読むことをお薦めいたします。(どの章だったかは、後ほど紹介いたします)

2012年9月20日木曜日

講孟箚記-尽心下篇-第二章 〜 天命とは

講孟箚記-尽心下篇-第二章■

 本章は、前章の「命を立つ」、天から与えられた生命を全うするという意見をうけて、「正命」と「非正命」との別についての意見を述べているもので、「命」について論ずること、極めて詳細であるといってよい。命というのは天命のことである。

世間一般の人々の考えでは、天命というと、天に心があって、人の行いの善いか悪いかによって吉凶禍福をそれぞれに与えることのように思っているが、これは大きな誤りである。
この章で命といっているものは、万章上篇第六章に「これを致すことなくして至るものは命なり」、人の力で招こうとしないでも、向こうからやってくるものが命である、といっている命であって、すべて人の力ではどうすることもできぬことを、命といったのである。吉凶禍福の類は、みな自分の思い通りにならぬことであるから、これを命というのである。
 

 さて「命に非ざることなきなり」、吉凶禍福、全て命であるといううちに、正命と非正命との区別がある。これについては、前章の『箚記』の中で述べておいた「疾病の譬(タトヘ)」を基準とし、その外のことはそれより類推してこれを知ることができる。
すなわち、家族が頑固な父、やかましい母、思い上がった弟や愚かな子であったり、洪水にあったり、飢え苦しんだりすることは、みな命であるが、これを命であるといって何もせずにいることは、非正命―正命ではないのである。
それは、為すべきことを放棄してその道を尽くさずにいるからである。聖人が心力を尽して天下のために勤めたのに関わらず、その子が丹朱や商均のような、いかんともし難い不肖であったことは、正命とも言えるであろう。
しかし、桎梏、すなわち手枷・足枷されて罪人として死ぬのは、自分から招いた禍いであるから、正命ではないのである。
それは、盗みや賭事のような悪事さえしなかったならば、罪人になるはずは全くないからである。

しかしながら、殷の湯王が夏台に囚われ、周の文王がユウ里に囚われたり、龍逢や比干のような忠臣でありながら、死罪になることを免れなかったのは、これが正命であるか非正命であるか、よくよく考えねばならない。
『朱子語類』にこの問題を取り上げて、
「孟子は、桎梏して死んだ者は正命でないと説いているが、これについて、孟子の真意はどうであるのかということを看ることが必要である。
一つ公冶長を例に取り上げてみると、彼は縲紲(ルイセツ)に在る―縄をかけられて獄に入っていたといっても、彼の罪のためではなかったのである。さればもし当時、許されぬまま獄死したとしても、彼の死は正命でないとはいわれないであろう。
罪があるとか罪がないとかは、結局、自身の問題である。
それ故に古人も、身を殺して仁を成す― 一命をすてても仁の徳を成しとげようとしたのである。」と論じている。

この意見によって、わたくしはこの事を次のように考える。
道義を実践してそのために禍罪にかかるということは、為すべき道を尽した極である。およそ人というものは、道義の外に行くべきところがないのであるから、道義を実践して禍罪にかかるのは、自分の意にまかせぬことであって、これを「これを致すことなくして至るもの」、招かぬのに先方からやって来るものといってよろしい。
そしてこの問題について、われわれは詳細に考えねばならない。

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豊かな、時に脅威となる自然と共に生きてきた日本人には、「なるようにしかならない」という気持ちがあるのを時折感じる。
しかし、人智ではどうにもならない天命と対峙したからといって、為すべきことをせずに放棄することは非正命であるとこの章では諌めている。
本篇の首章に「人事を尽くして天命を待つ」について書かれているが、なされるがままではなく与えられた天命に対して自分の道を尽くすことの重要性を説いている。

終盤の「為すべき道を尽くした極である。」とあるが、東北周遊での友に義を尽くすための脱藩、下田での密航計画など、松陰先生は「道を尽くす極」を自ら実践している。


2012年9月12日水曜日

講孟箚記-離婁下篇-第十三章 〜 本当の孝と忠について

講孟箚記-離婁下篇-第十三章


 この章の意味は、朱子の註によって已に明らかになっている。しかしわたくしは、今別の一説を提起して参考にしたいと思う。

 「生を養ふ」、親の生存中に孝養を尽くすということは、父母の目の前における行為であるから、非常な狂妄人でない以上は、ある程度までは親に恭しい態度をするものであるから、この態度を見て簡単にその人を信じて孝子と思い、親に孝だから兄に悌の念もあるであろう、君に忠の心もあるであろうなどと思って、大事の際にこの人を用いようとすると、これは大きな誤りであろう。
「死を送る」、親の葬儀を行う際に及んでも、なお親の生存中同様、必ず誠に必ず信、誠実を尽くすことができる人物こそ本当の孝子であって、このような人こそ、大事に当てるに足るものであり。
大事に当てるとは、重大な事が生じた際、それを担当するに堪える人物であるということである。すなわち『論語』にいう「大節に臨みて奪ふべからず」のごとき精神力があることをいうのである。〔当つという字の意味は、朱子の註と少しことなっている。〕

 以上の道理は、父母の生死の際のことだけのことでなく、あらゆる問題の上で同一である。
国が強く勢いが盛んである時には、誰も忠勤を励むものであるが、国が衰え勢いが去ってしまうと志を変えて敵に降参し、主君を売る類の人間が少なくない。
それ故に人は、晩節を全うするのでなければ、どれほど才智学藝があっても、尊ぶ価値がないのである。

英明な君主のもとで忠義を尽くす家臣は珍しくない。
暗愚な君主に仕えて忠義を尽くす人物こそ、真の忠臣である。

慈愛深い父のもとで孝行をする子供は珍しくない。
頑迷な父に仕えて孝行を尽くす人物こそ、真の孝子である。

賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。
責罰されてもなお忠孝を尽くす人物こそ、真の忠臣孝子である。
武士たる者が覚悟すべきこと、実にこの一点にある。


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「仁」の親に対するものが「孝」、君に対するものが「忠」であり、両者あわせて挙げて本当の忠孝とは、ということを説いている。

その人の真の「忠孝」を見極めなければ、大事に際して、任せるべきではなかった、、、という結果になることを忠告しているともとれる。

話しは少しずれますが、体調不良で過去に辞任してしまった元首相の再出馬は、誰もが「大事は任せられない、」という気持ちだと思うのだが、どうだろうか。

2012年9月10日月曜日

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章 〜 孝行とは

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章


 前章に已に、斉ほどの大国でも、人倫に比べるならば極めて価値は軽く、わずかの食物と違うところがない、といっており、本章には、ただに斉国のみでなく、天下といえども、父子の道の重いことに比較すれば、やぶれ草履に等しいことを述べている。

本章の主意と、万章上篇首章の記述とを合わせて考えて、それによって大舜の心事を考察し、孝行の道を把握するがよい。

だいたい、孝道というものは、眼中、ただ父母を思う一念のみがあるのみである。
父母がなかったならば、一日も我が身は存在しないのであるから、それを思えば、父母のためにはわが生命も問題にならぬ。
まして天子の地位いかに貴くとも、天下の富いかに多くとも、父母に比較すればやぶれ草履に等しいもので、何で問題にするに足りようか。
以上の主意については、朱子の註に、説くこと至れり尽くせりである。

 新井白石の『読史餘論』に本章が次のように引用されている。

「『保元物語』を見ると、源義朝に父の爲義を切らさせられたことは、過去に未だに聞いたことのない不祥事であり、これは、それを命ぜられた朝廷のお誤りであるとともに、子たる義朝自身の誤りである。『孟子』に、舜が天子の地位にあり、皐陶が裁判官の地位にあるとき、父の瞽目-叟(コソウ)が殺人を犯し、皐陶がこれを、執えたとすれば、舜はどうしたでありましょうかという桃應の問いに対し、孟子が、舜はその地位を棄て、父を背負って辺土に去るであろうと答えたことを載せているが、義朝においても、父を助けようと思ったならは、その方法はあったはずである。自分に賜る恩賞に代えたとしても、よしわが身を投げ出したとしても、父を救おうと思うならば、救われたのである」

とある。
この意見に、わたくしはまず同感する。
このように心を使って、なお救うことができなかったならば、父とともに生命を失ったとしても、少しも心残りはないのである。
舜の心も同様であった。殺人罪をおかしたものを、人に知られぬように背負って逃げたとしても、天下の威勢をもってこれを捜索したならば、やがて露顕してしまったかも知れず、一生涯、父とともに欣然として居るということは、困難であったろう。

しかしながら、捕らえられて直ちに父子もろとも殺されたとしても、一生欣然としていたという事実を、少しも傷つけぬのである。楚の令尹であった子南の子の棄疾や、唐の李懐光の子の李摧の行為は、以上の道において全く欠点がないものである。

これについては、縢文公上篇末章の「一本」、本を一にするの説、及び本篇第二十六章の「権」の説にどと合わせて研究するとよい。
なお本章においてはもっぱら父子の間の道について説いているが、この舜の子としての心を推しつめてゆくならば、君臣間の道においても同じことなのである。『孝経』に、「孝の心を以て君に仕えるならばそれが忠である」とあるのは、このことをいったものである。

(講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾著より)

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この章で説かれている「孝」については、他の章でも度々出てくるので合わせて熟考したい。
儒家思想の「孝」は現代の親孝行の本の考え方だと思うが、ニュアンスは少し違う気がします。この章はそれを考えるのに良い例だと思う。

私の地元米沢の上杉鷹山公は大倹約令を発しながら、養父の重定には甘く、藩が窮乏しているにも関わらず贅沢な生活を許した。
この点について疑問視したり、甘やかすべきではなかった、と述べている著書があるが、それらの意見に関して言えば、私はこの章でも書かれている儒家思想の「孝」についての考えが不足しているように思う。
もともと徳の厚い上杉鷹山公であったのだから、当時一番の貧乏藩とはいえ、養父に藩主として迎えられたことに対する恩は計り知れないものがあるだろう。
その心中はこの箚記を読んで「孝」について考えれば、想像できるように思う。

講孟箚記-公孫丑上編-第八章 〜他の力を借りる

講孟箚記-公孫丑上編-第八章


舜は大聖人である。
彼がまだ身分が低くて、農夫・陶工・漁夫と一緒に生活している時、必ず「人に取りて以て善を為す」、他人に善いところがあれば、それを取り入れてすぐ実行したわけは、天下というものが至って大きく至って奥深いものであって、まことに一人の知恵や能力ではこれを窮めることができぬことを知っていたからである。

更に舜が「人と善を為す」、人々と一緒に善を行ったということになると、これは、仁の至上なるものであって、我ら至らぬものどもは、とうてい、聖人の大徳に及ぶべきものではないが、既に志を立てて聖人を学ばんと決心した以上、大舜であるからといって、その大徳に畏れることはないのである。

それ故に、自己の小さな知恵や能力を挟まず、広い心を持って他人の知恵や能力を採用し、その上に人の善心を勧め助けて、いっしょに道に向かって進むべきである。
更に言えば、世の中には、人を誘って道に進もうとする人物は極めて少なく、ひどい人間になると、互いの知恵と知恵、能力と能力とをぶつけて抗争しあうまでになる。
この上なく哀しい話である。

われわれは、深くこの点に留意しなければならない。


(講談社学術文庫『講孟箚記』近藤啓吾著より)

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一人の能力は限られている。
全て自分でやろうとするのには限界があり、他人の能力を認めて助けてもらわなければ大道はなし得ない。
塾生ひとりひとりの特徴を見抜いていたといわれる松陰先生らしい言葉。

この講孟箚記を説かれた野山の獄では、松陰先生が孟子の講義をするだけでなく、松陰先生の提案により他の囚人にそれぞれの得意分野の先生となってもらい(歌や詩など)、互いに学問を磨いたといわれる。
誰に対しても分け隔てなく教え、誰に対しても教わる姿勢を持つ松陰先生だからこその重みがあるように思う。

大きな事態に直面すると、前しか見えなくなりがちだが、自分のすぐ近くにも今その時を乗り切るのにふさわしい能力を持った人がいるかもしれない。
心に留めておきたい一節です。



2012年9月7日金曜日

講孟箚記-万章上篇-第三章 〜 いつまでも根に持つな

講孟箚記-万章上篇-第三章

怒りを蔵さず、恨みを宿めず」、怒りを隠さず、怨んでもそれをいつまでも根に持つことがない、という二句が、とりわけよい。
この問題は、弟に対する時だけでなく、仁人の心は、他のすべての人々に対してもこのようなのである。
『論語』に、「怨みを隠してその人を友とすることは、先輩の左丘明も恥ずかしいとしたが、私もまた恥ずかしいと思う」とあるが、それも同じ意味である。
凡そ人と交際する道は、もし相手に対し怨怒することがあったならば、直ちにこれを忠告直言すべきものである。
もしそれができなければ、むしろ怨怒しないほうがよい。
もしそうでなくて怨怒を胸のうちに隠しておき、折りを見てこれを吐き出そうと思ったならば、それは陰険な小人の行為であって、まことに臆病だといわねばならない。

君子の心は天の如くである。
されび怨怒するところがあれば、雷霆の怒りを発することもあるが、そのことが納得いくならば、また青空や太陽の如く少しも心のうちにそれを残すことがない。
これがいわゆる、君子の陽剛の徳というものである。

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これはそのまま文面通りに受け止めて良いと思います。
激情家だが言葉遣いは落ち着いていたと言われる松陰先生ですが、この章にあるように怒る時は
弟子達に対しても激しく怒り、手紙に弟子達の態度に憤慨し「絶交する」と手紙に書きつけています。
管理人としては非常に耳が痛い話しで、怒りを溜め込むタイプなので、心を改めなければと思うこのごろです。



2012年9月5日水曜日

講孟箚記-告子上篇-第四章 〜 仁と義について

講孟箚記-告子上篇-第四章
 
 告子のいう「義は外である」という説の誤りであることは、孟子が明確に批判しており、それ以上の説明を必要としない。しかしながら、シナ人は、義は外であるということの誤りを本当には理解していないので、君臣の義についての本当の理解がない。
わたくしが考えるのに、仁と義とは同じ根から生じたもので、その対象が何であるかによって、仁とか義とか、名称が違ってくるだけである。
されば、父子の間には仁といい〔親しみというのも慈孝というのも、みな仁のことである〕、君臣の間には義というが、その実際は、一つの心から出るものである。

 およそ臣下たる者は、自分がこの世に生まれるよりも前から君恩に俗して生長したのであり、衣食も田畑家屋も、すべて君恩によるものである。まして重禄・高位を世々継承する身分の者に至っては、君恩に俗すること、更に深い。
『孝経』には「身体髪膚、これを父母に受く」とあるが、父母や祖父母もみな君恩に俗して生長したのであるから、この身の頭の先から、足の先に至るまで、みな君のものにほかならない。目をつぶり、静かにこの身の根本がどこからきたものであるかを考えると、感激の心が悠然としておこり、報恩の心が勃乎として生まれてきて、君の御為には一身を水火に投ずべく、敵の刃のもとに斃(タオ)れたならば、わが責務を全うすることができるであろうか、直諫極論・面折廷争したならば、わが罪を免れることができるであろうかと、誠心の発動、おのずからやみがたいものがある。これがすなわち、義であり、仁であるが、しかも君臣の間においては、これを特に義と呼んでいる理由は、両者の身分が遙かに隔たっているため、親愛の情が父子の間のようにはゆかないからであり、これを義と呼んで、その宜しきを得ようとするために外ならない。

 わたくしの友人に、某という胆が太く勇気があって、よく酒を飲む人物があるが、かつて江戸にいた時、ある料亭の会合の席で痛飲し、世を歎くあまり、大いに酔いしれてしまった。するとその下僕、それは七十あまりの老人で、某がまだ生まれぬ前からその家に仕えていたものであったが、大声をあげて泣きながら「御主人は、日頃はあのように狂暴の方ではありませんのに、ただ酒が人柄を狂わせてしまいます」といったので、その切々たる至誠が、一座の人々を感動させたことがあった。わたくしは、今に至るまで、このことを忘れることができない。この至誠こそ、わが日本人の固有の忠義であって、昔から、忠臣義士の心も、この老僕の心と同じものなのである。
そしてこの老僕が主人を心配する心は、わが子を親愛する心に外ならぬので、これは仁であるが、ただ、対象が主人であるから、大声で泣くだけであって、わが子を叱りつけるようにすることができないのである。これが、仁と同根でありながら、君臣の間では義と呼ぶ理由なのである。

しかし、この問題は、シナ人においては事情を異にしており、彼にては、「君臣は義をもって合うものである」といって、両者の道が一致した時は服従し、一致できぬ時には辞任する。
「三諫して主人に聴かれぬ場合には、その国を去る」というのが、これである。
すなわち魯の人でありながら楚の国に仕えてもよく、鄒の人でありながら斉の国に仕えてもよい。
されば、彼らは、義は内であるというものの、仁と義とは同根であるということの真義を理解していないといわねばならない。■

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松陰先生は箚記を通して「皇国の皇国たる所以」、わが国の国体がどういったものであるかを説いているが、それを理解するのに一番大切なものが『孟子』本文のテーマでもある「仁」である。
「仁」は人としてなくてはならないものだが、我が国の仁は中国のそれとは違うと松陰先生はいう。
随所に「仁」について説かれる章が出てくるので、他も併せ読んで熟考したい。

2012年9月4日火曜日

講孟箚記-万章下篇-第二章〜祖法、天皇

講孟箚記-万章下篇-第二章

 古代のよい制度やよい意思が後世に伝わらないのは、常に暴と慢という二つの力によって阻害されるからである。「諸侯、その己を害するを悪みて、皆その籍を去る」、諸侯は、おのれの勢力を拡張するために、周の定めた序列が自分らを束縛するものであるとして悪み、各国ともそれを記載した文章を破棄してしまった、というのは、それは暴のことをいったものである。
後世、秦の利斯が、書籍を焼き捨て学者を坑うめにしたのは、暴の甚だしいものであるが、その淵源は久しいといわねばならず、それは、本章に、すでに「籍を去る」、文書を破棄したという記事があることによって知ることができる。
慢というのは、記録することを怠り、記録してもそれを修補することを怠り、年がたつにつれて消え滅んでしまうことをいうのである。『孟子』に専ら暴のことばかりが記してあり、慢に及んでいないのは、記録のなくなった理由のうちの重大なものを特に挙げたからである。

 いったい、国家の政治上の第一の眼目は、祖法を守ることであり、祖法は文書に記録されている。『中庸』に「文王・武王の政治については、文書に記録されている」とあり、告子下篇第八章に「祖先より伝来の文書を守る」とあるのも、みなこの祖法のことをいったのである。
今日は、名君賢相相遇のよい時代なので、突然、暴によって文書を破棄するには至らぬであろう〔ある人が、それも覚束ないといっている〕が、慢によって文書がいつしか消えてゆくことに気づかぬということは、ないと保証しがたい。君主・宰相が負わねばならぬ問題は、文書保存の責務である。

さて、周室の制度はその詳細を知りがたいが、わたくしは常にそれについて深く感ずるところがある。周制においては、天子・公・侯・伯・子男を五等の段階とし、さらに諸国においては、君・卿・大夫・上士・中士・下士と六等の段階にしている。周制は事ごとにこの精神で貫かれており、籍田の礼、葬月の数の類も、すべて同じである。
思うにそれは、「天子という地位は公・侯より一階級尊いだけであり、君という地位は卿・大夫より一階級高いだけである」と考えたものであって、それ故に夏・殷・周の三代においては、君主たるもの、地位が高いからといって人に誇ることなく、謙虚な態度で下位の者に対する礼があり、それ故に国家のうちは、和らぎ睦まじかったのである。
ところが、春秋・戦国の時代になると、君主の威厳・恩徳ともに薄くなり、臣下は日々に驕慢となって、その結果として、田氏は主人を倒して斉を奪い、韓・魏・趙の三氏は協力して主人を廃し、晋を奪って分配するまでになったのであり、最後には、君臣間の礼は全く破棄されてしまった。それ故に、秦が天下を統一して天子となると、君臣の分度を定め、多年積もった弊風を直ちに改めて、眼前、大いに快哉を誇ったものであるが、それ以来、三代の時代の美しい精神は全く滅びてしまい、そのまま今日に至っている。まことに惜しむべきことである。

 わが国は、君臣の義において、外国とは全く別であるとはいえ、天子は雲の上のお方で人間とは違った存在であるというように思うことは、古の道ではない。
王朝が衰えた結果としてこう考えるようになり、こう考えるようになった結果として王朝はますます衰えるのである。
さればこの道を天子の御前に申し上げる人物がいたならば、必ず時代を超えて古道に進む人物も現れてくることであろう。
しかしながら、このことは、不用意に説くべき問題ではない。不用意に説き不用意に聞いた時には、かえって権奸のよい口実となって、自ら天子たらんとする乱臣賊子が、わが国にも相次いで出るようになることであろう。これはまことに恐るべきことである。

 また按ずるに、周制によれば、庶人であっても、五人から九人の家族を養うことができた。これはまことに恩徳の厚いことであったといわねばならない。
しかし古代のシナにおいては、土地広く畑多く、しかも人口が少なかったからこそ、これを行うことができたものと考えられ、わが国の今日では、それをそのまま手本とはし難いことである。

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この章では終盤の手前で天子について述べている。
「天子を人間とは違った存在とみることは古の道ではない」という。
ここに松陰先生の国体観が垣間みれる。
天皇が尊い存在であるが、それは特別神聖視するものではない。

明治維新後の帝国主義はここが根本的に失敗だったと感じる。
日本は皇国、ではあるが西洋の皇帝、王とはその在り方が異なる。
天皇を近代化にあわせて神聖な皇帝として無理矢理仕立て上げる必要はなかったのではないかと思う。



2012年9月1日土曜日

講孟箚記-公孫丑下篇-第十四章〜報酬を受けるということ

講孟箚記-公孫丑下篇-第十四章

孟子は斉の宣王にお目にかかった当初から、意見が容れられないことを察して、去らんとする志があったので、俸禄を受けなかった。
この事実から、古人は、いい加減の態度では俸禄を受けなかったことを知らねばならない。
韓信のことばに、「人の車に載るものはその人の心配を自分の心に載せ、人の着物を着るものはその人の心配を自分の胸に抱き、人の食を食べるものはその人のために生命を投げ出す」とあるが、仕えてその俸給を受けるからには、この一身をすべて君に捧げ、君の御用に役立てねばならない。
このことこそ、古人が、いい加減には俸給を受けなかった理由なのである。
今の世の人々は、太平の深い恵みと、祖先の恩によって、沢山の俸給を賜っていながら、このようになった当初のことは知っていないし、俸給を受けることが、いい加減な態度でしてはならぬことを知っている者も少ない。
これらの章においてこのことの本義をよろしく悟るべきである■


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いわずもがな、卑近な例ではありますが、わかりやすくいうと報酬を受け取ることの重みを説いていることはおわかりでしょう。
国家公務員であればなおさらのことですが、、、。

ですが一歩踏み込むと先祖代々受け継いできたものを子々孫々まで残すために努めなさい、という話しへ繋がっている一節であると思います。

吉田松陰先生は我々が代々先祖から受け継いできたものを非常に重視されています。
先人の恩恵を受けながら行きている我々は、日々の生活においても徒に過ごすことなく、その重みを受け止め感謝し、子孫へ残し伝えていかなければいけないと教えられています。

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章〜孝行について

講孟箚記-尽心上篇-第三十五章

■前章に已に、斉ほどの大国でも、人倫に比べるならば極めて価値は軽く、わずかの食物と違うところがない、といっており、本章には、ただに斉国のみでなく、天下といえども、父子の道の重いことに比較すれば、やぶれ草履に等しいことを述べている。本章の主意と、万章上篇首章の記述とを合わせて考えて、それによって大舜の心事を考察し、孝行の道を把握するがよい。だいたい、孝道というものは、眼中、ただ父母を思う一念のみがあるのみである。父母がなかったならば、一日も我が身は存在しないのであるから、それを思えば、父母のためにはわが生命も問題にならぬ。まして天子の地位いかに貴くとも、天下の富いかに多くとも、父母に比較すればやぶれ草履に等しいもので、何で問題にするに足りようか。以上の主意については、朱子の註に、説くこと至れり尽くせりである。

新井白石の『読史餘論』に本章が次のように引用されている。「『保元物語』を見ると、源義朝に父の爲義を切らさせられたことは、過去に未だに聞いたことのない不祥事であり、これは、それを命ぜられた朝廷のお誤りであるとともに、子たる義朝自身の誤りである。
『孟子』に、舜が天子の地位にあり、皐陶が裁判官の地位にあるとき、父の瞽目-叟(コソウ)が殺人を犯し、皐陶がこれを、執えたとすれば、舜はどうしたでありましょうかという桃應の問いに対し、孟子が、舜はその地位を棄て、父を背負って辺土に去るであろうと答えたことを載せているが、義朝においても、父を助けようと思ったならは、その方法はあったはずである。
自分に賜る恩賞に代えたとしても、よしわが身を投げ出したとしても、父を救おうと思うならば、救われたのである」とある。この意見に、わたくしはまず同感する。
このように心を使って、なお救うことができなかったならば、父とともに生命を失ったとしても、少しも心残りはないのである。
舜の心も同様であった。
殺人罪をおかしたものを、人に知られぬように背負って逃げたとしても、天下の威勢をもってこれを捜索したならば、やがて露顕してしまったかも知れず、一生涯、父とともに欣然として居るということは、困難であったろう。しかしながら、捕らえられて直ちに父子もろとも殺されたとしても、一生欣然としていたという事実を、少しも傷つけぬのである。
楚の令尹であった子南の子の棄疾や、唐の李懐光の子の李摧の行為は、以上の道において全く欠点がないものである。
これについては、縢文公上篇末章の「一本」、本を一にするの説、及び本篇第二十六章の「権」の説にどと合わせて研究するとよい。なお本章においてはもっぱら父子の間の道について説いているが、この舜の子としての心を推しつめてゆくならば、君臣間の道においても同じことなのである。
『孝経』に、「孝の心を以て君に仕えるならばそれが忠である」とあるのは、このことをいったものである。

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ここに孝に対する姿勢が見れる。
上杉鷹山は大倹約を行いながらも、養父の重定の贅沢は許した。
この行為を疑問視する著書があるが、儒家思想による「孝」に対する考え方は一般的な善悪で白黒をつけられるほど単純ではないように思う。
吉田松陰先生の弟子である高杉晋作も、あれほどの豪傑でありながら、両親に対してはまるで頭があがらなかったといわれる。
高杉がすぐ兵を挙げなかったのも、親に対する孝行心や配慮があったのが理由の一つである。
歴史上の人物について学ぶ時は、この「孝」について深く理解するように努める必要があるように思う。



2012年5月18日金曜日

講孟箚記-離婁上篇-第四章、第五章〜反求諸己

『講孟箚記』巻の三、第十九場

第四章

反りて諸を己に求む。(反求諸己)

第五章

家の本は身に在り。(家之本在身)


「反求」の二字、聖経賢伝、百千万言の帰着する所なり。
「在身」の二字も、亦同じ工夫なり。
天下の事、大事小事、此の道を離れて成ることなし。
大、四海を包み、剛、金石を貫く。豈復た他道あらんや。
下二章の大議論と云へども、此の二章に外ならず。



【現代語訳】
「反りて求む」、反省して自己を責めよというこの語こそ、聖賢の書物に記されている無数のことばの結論である。「身に在り」、一切の問題の根本はわが身にある、自己の身こそ責任の所在である、というこの語もまた、同じ努力の道を説いたものである。
天下の問題は、大小の別なく、この二語に示されている道を離れて成就するものはない。
されば、その大きさは四海を包み、その剛(こわ)さは金石をも穿つというような偉大な事業も、この道の外に道はないのである。
以下の二章の大議論にしても、この第四・第五の二章の精神に外ならないのである。